今週末に大分の別府で開催される言語科学会の研究大会で共同研究のポスター発表があります。1年前から追いかけているthere構文における主語と動詞の一致についてです。今回のポスターには盛り込めませんでしたが,別で取ってるデータもあるのでそれもまとめて今年中にどこかに論文を投稿予定です。
昨年JABAETで発表したときの資料はこちら。
今回のポスターはこちら。
今週末に大分の別府で開催される言語科学会の研究大会で共同研究のポスター発表があります。1年前から追いかけているthere構文における主語と動詞の一致についてです。今回のポスターには盛り込めませんでしたが,別で取ってるデータもあるのでそれもまとめて今年中にどこかに論文を投稿予定です。
昨年JABAETで発表したときの資料はこちら。
今回のポスターはこちら。
中部地区英語教育学会和歌山大会で,同じ名古屋大学大学院の後輩である西村くんと,共同研究の発表があります。語彙のネットワークモデルである階層改訂モデル(Kroll & Stewart, 1994)に基づき,文法の情報である複数素性がどのように処理されているかをL2英単語をみてからL1翻訳のマッチングを判断する課題と,L2英単語をみたあとに写真を見るという課題で検討したものです。資料のPDFはslideshareからアクセスできるようになっていますので御覧ください。なお,当日印刷した配布資料の用意はありませんのでご了承ください。
昨日の夜,思いつきで作ったらとっても美味しかったのでご紹介。
オムライスなんですが,ケチャップライスの代わりにガーリックライスを使って,卵の上にトマト煮込みソースをかけたものです。
思いついたきっかけは,ケチャップライスでオムライス作って,その上にトマトソースをかけるのはなんだかなぁということをぼんやり考えたからです。そこで,トマトソースと相性の良さそうなにんにくで,ガーリックライス作ってかけたら美味しいんじゃないかと。そしてどうせならトマトソースと相性の良いチーズも載せればいいんじゃないかと。それから,サラダに!まめはとっても便利で,トマト缶で煮込んだトマトソースはよく作って料理に使っています。ハンバーグと合わせてもいいし,魚料理にもいけるし,もちろんパスタでも。カレー粉いれたらカレーにもなります。今回は,そのトマトソースを作り置きしてあったのでこの料理ができたというのはあります。というわけで,普通のオムライスはちょっと飽きたなぁという方はお試しください。
なにをゆう たむらゆう
おしまい
ツイッターである記事に対する反応を見つけて,それに対していくつかつぶやいたのですが,いまいち伝えきれてないような気がして(というか自分の中で整理しきれていないような気がして)ちょっとブログに書いておきます。
もとの記事はこれです。
この記事に対するコメントはツイッターでもちらほらありまして,例えばツイッターで記事のリンクを検索したり,NHKニュースのアカウントがした当該記事のツイートへのメンションをみてみるとかするとまぁいろんな考えの人がいるんだなぁ(粉蜜柑
という感想です。
Anyway.
この記事に対して,
教員の能力が劣っているような印象操作は止めてください。生徒1人1人の事情がまるで反映されていない。アルファベットすら理解しないで高校に入学する生徒に対して、どうやって英語だけの授業が成立するのか。 https://t.co/SIbmJm5oFa
— ほりまち (@hori_machi) May 25, 2015
という反応を見かけました。端的にいうと,これってあまりいいロジックじゃないよなというのがこの記事の主旨です。リンク先のNHKの記事は,「英語教員で英検準1級以上を取得している割合が5割くらい」ということと,「英語で授業をしている割合が低い(都道府県でばらつきがかなりあるけど)」ということを書いています。上記のツイートをした人が批判しているのは,
ということなのだと私は解釈しました。そこからもう少し踏み込むと,「資格試験取りに行く暇もないし英検もってないからって英語力ないとは限らない」ということなのかもしれません。これは私の憶測に過ぎませんが。ここで,「印象操作である」ということに対するカウンターエビデンス(といっていいのかな?)として持ちだしているのが,「生徒1人1人の事情がまるで反映されていない」という点であり,その具体例として,「アルファベットすら理解しないで高校に入学する生徒」の存在に言及しています。ここから読み取れるのは,英語で英語の授業をしていないのは,英語力の問題ではなく,「生徒1人1人の事情」を考慮してのことであるというロジックです。英語で授業を行う際に,このことは考慮すべき要因であるという意味ならわかります。学習者の習熟度によって,理解できる英語の語彙や文法のレベルが異なるので,異なる習熟度の学習者に合わせるのが難しいということなら,それは現実問題としてなくはないだろうなと思います(ただし,日本語を使えばこれが解決するのかというのはあります)。この,「異なる習熟度の学習者集団」の中の,「下限」あるいは「下位集団」の例として,「アルファベットすら理解しない」という具体的を提示しているのだとしたら,それは難しいだろうなぁとなります。アルファベットを教える段階にある学習者と,中学卒業レベルの英語を学習している学習者では,そもそも一斉授業を行うのが困難であることは容易に想像ができるからです。これは,英語を使うか日本語を使うかという指導に用いる言語を調整することでどうにかなるということではないので,クラスを習熟度別に分けるなりといった別次元の方法で解決されるべきでしょう。
ただし,もしも,万が一,仮に,「アルファベットすら理解しないで高校に入学する生徒に対して、どうやって英語だけの授業が成立するのか。」という文を文字通りに解釈すれば,「アルファベットすら理解しない学習者に対しては,英語だけの授業が不可能である」と読めないこともありません。もしも,この解釈が正しいとすれば,さきほどのツイートが意味するのは,
ということになりはしないでしょうか。もしそうだとすると,これって本当なんでしょうか?と疑問を抱かずにはいられないのです。
この問題を考えるにあたって,まずは「アルファベットを理解しない」というのがどういった状態であるのかを確認し,その状態の学習者に何を教えるべきで,どんな指導目標をたてるべきかを考えてみたいと思います。その上で,その指導目標を達成するためにはどのような手段が考えられるのかを考えてみます。ではまず,「アルファベットを理解しない」というのはどういった状態なのでしょうか。これはおそらく,
という状態であると考えられます。ただし,これも「受容と産出」の両面から考えるべきです。「A, B, C…Z(a, b, c…z)」という文字入力を見て,それを「エー,ビー,スィー」と発音できることと,「エー,ビー,スィー」という音声入力を聞いて,それに対して「A, B, C…Z(a, b, c…z)」という文字記号を割り当てることは別だからです。さらに言えば,音声入力を聞いて,さらにそれを文字として書くことも別です。そういったことをすべて含んで「アルファベットを理解しない」という学習者がいるとここでは仮定しましょう。そして,そういった状態の学習者であれば,まずはアルファベットがわからなければ,と考えたとします(注1)。つまり,
という3つを目標とした指導を考えることにします。では,次にこの3つを学習者ができるようになるためにはどのような指導をすればよいのかを考えてみましょう。せっかく3つに分けたのですから,それぞれの目標を達成するためのアプローチを考えます。ここでカギとなるのが,先ほど触れた「受容と産出」という観点です。普通,言語習得のプロセスは受容→産出という順序をたどります。もちろんこれは本来,「形式で表される意味を理解すること」というのが受容です。つまり,まずは理解が先でしょうということ。これが言語を習得するにはとにかく大量に必要であるというのが,「インプットが大事!」という言説(input仮説とかいわれるもの)の根本原理です(注2)。ここでは指導するのがアルファベットですので,アルファベット自体が何か意味内容を表すということはありません。したがって,ここでの「受容」とは,1番の「音声入力を聞いて文字記号を割り当てることができること」となります(注3)。まずはここからいってみましょう。パッと思いつくのは,AからZまでの文字を提示しながら発音してモデルを示すのを繰り返すというもの。別にここでリピートさせたりしてもいいんですが,例えばリピートさせるとすると,それは上記2番の「文字入力を見て発音できること」につながる練習だと言えます。カルタ取りみたいな感じで,教師が発音したアルファベットのカードをグループで取り合うような活動も,「音声入力を聞いて文字記号を割り当てることができる」からこそ可能なゲームです。これの準備段階で,机の上にランダムに置いたアルファベットのカードを教師が発話したアルファベットの順に取って並べるというような活動も考えられますね(注4)。
次に,「文字入力を見て発音できること」を考えましょう。これは,アルファベットを見て,それを発音することですよね。つまり,文字に対応する音は聞けばわかるという状態にあってこそできることといえます。つまり1番ができることが前提になりそうです。1番の活動を通して,何度も音声入力を聞いていますので,文字を見て発音することの難易度は下がっていることが予想されます。ここでモデルを示して,練習したりすることがすぐに思いつきます。その後,教師がランダムに提示するアルファベットを発音させる,あるいは,ペアでランダムに10枚ずつアルファベットを選んで,1枚交互に提示し,お互いに発音できる枚数を競い合う,というような活動も考えられます。
最後は,「音声入力を聞いて割り当てられた文字記号を書くことができること」ですね。これは,聞いた英語を書くことなので,要するにdictationのような活動がアルファベット単位でできるかということになります。これも教師が読み上げたアルファベットを書き取らせたり,それをペアでやらせてみたりという活動が考えられます。ここまでやってきたことをつなげれば,文字を音にし,音を文字にする,という流れになりますので,flip writingのように表に書いてあるアルファベットを,裏面に声にだしながら書き写すという活動は文字→音→文字という結びつきを作るのに良い練習になるかもしれません。
さて,ここまで,「アルファベットを理解しない」というのはどのような状態なのかを定義し,そうした状態にある学習者が,「アルファベットを理解しない」という状態ではなくなるような指導,つまり,「アルファベットを理解する」状態になるような指導を,「受容と産出」の観点からいくつか考えてみました。ここで,最初の疑問点に戻ってみましょう。要するに,私が言いたいのは,ここまで考えてきた活動って,絶対に英語ではできないのでしょうか?ということです。日本語でなければできないのでしょうか?ともいえます。上記で私の考えたような活動は,外国語活動や,中学1年の入門期の指導として実践していらっしゃる先生も多いのではないでしょうか。そして,英語でこれらの活動をやっている先生もいらっしゃるように思います。
というと,「こんな小学生や中1がやるような活動を高校生がやるわけないだろう」と反論される方もいらっしゃるのかもしれません。確かにそのとおりだと思います。本当にそのとおりだと思います。ただし,そうすると,その問題点というのは,「アルファベットすら理解しない学習者に対しては,英語だけの授業が不可能である」のではなく,「指導する内容またはその方法と学習者の認知レベルの間にギャップが有ること」ですよね。つまり,学習者の習熟度が低い場合には英語で授業することが不可能であるというわけではありませんよね?ということなんです。学習者の習熟度が低くとも,それに合わせた「英語で行う英語の授業」が考えられないかというとそういうことではないと。アルファベットを教えるのだって英語でできないことはないように私は思います。少なくとも,「アルファベットを理解しない」学習者の存在が,英語で授業を行えないことの理由になる,あるいはそういった学習者の存在を理由にするというのは筋が悪いでしょうas discussed above.
問題はもっと別のところにあるというのなら異論はありません。そもそも英語で授業を行うことを考えるほうが,色々なスキャフォールディングを用意しなくてはいけないという点では準備に時間がかかると思います。よって,そのような時間がない,授業準備の時間もとれない,というような状況にある先生方にとっては,英語での授業は難しいというのは十分に理解できます。誤解していただきたくないのは,「英語で授業をできるのに英語で授業をしないなんて怠慢だ!英語でどうやって授業やるか考えろ!」と言っているのでないということです。また,「英語で授業ができない教員なんて!もっと英語で授業やれ!」と言っているわけでもありません。ただ単に,「英語で授業を行えない」ことの理由として,「学習者の習熟度の低さ」,具体的には「アルファベットを理解しないこと」を持ち出すのはあまりいいロジックじゃないですよということです。学習者の習熟度が問題で英語で授業を行えないということは,習熟度の高い学習者に対しては英語で授業をできるということも同時に意味しますしね。そうすると,「では,英語のできる学習者の多い進学校なら英語で授業ができますか?」とか,「アルファベットが理解できる学習者相手であれば英語で授業ができますか?」と聞きたくなってしまいます。きっと,受験なり同僚問題なり学習者からの要望なり,また別の,英語で授業ができない理由を列挙されるのでしょう。そうなんです。「学習者の習熟度が低いこと」は関係がありません。最初から,もっと別の,環境とか構造の要因を理由として挙げるのなら,納得せざるを得ないこともあります。しかしながら,アルファベットができない学習者であるから英語で授業は無理だと読めるような発言には納得できなかったのです。もしそうでないのだとしたら私の誤読ですので申し訳ありません。
私は,指導言語を始めとする指導法や教授法をトップダウンで決めることに賛成はしません。それこそ様々な要因の複雑な交互作用の中で指導法は選択されるべきですし,画一的にこれで全部万々歳ということはないでしょう。そんなに簡単じゃない。ただし,特に日本語でやる積極的な理由がないときは英語でやりませんか,ということは言いたいです。全部英語でなんてことではなく,状況に応じて日本語と英語をうまく切り替える必要はあるでしょうし,内容によっては日本語メインでいい時もあるはずです。そんななかでも,「少しでも受容と産出の両方を通じて学習者が英語を使う」機会を増やす工夫をしませんか?と。もっとも,私のような若輩者がこんなこと言っても誰にも聞いてもらえませんので,どうか偉い先生方にはこういうことを言い続けていただきたいなぁと思っております(チラッチラッ
というわけで,長文駄文失礼しました。
なにをゆう たむらゆう
おしまい。
注1: 別にこれができなくても,「キャット」という音が「猫」という意味に結びついているというように,音とそれが表す意味が一致している状態であれば英語の授業はできると思います。例えば小学校外国語活動ではアルファベットが書けない状態でも授業やっていますよね。アルファベットが理解できることは非常に重要ですが,言語習得とは究極的には「形式と意味のマッピング(form-meaning mapping)」であることも,授業を考える上では重要だと思います。
注2: インプットを与えるだけじゃダメだ!インテイクなんだ!というのがその後言われるようになりましたが,なにがインテイクなのかというのを操作的に定義するのは実は結構難しく,インテイクという言葉はあまり評判がよくありません。
注3: 実は,「文字と文字を一致させること」も受容的な処理だといえます。例えば,アルファベットの神経衰弱ゲームなどを考えます。「AとA」のように同じアルファベットを引いたらそのカードをとれるというように。これは,音と文字を一致させるよりも難易度が低いでしょう。もう少し難易度をあげるなら,「Aとa」のように大文字と小文字が一致するような神経衰弱ゲームです。
注4: これを発展させて,並べてできるのが単語になっていてそれを正しく発音できたら(あるいは意味がわかったら)1ポイントというようなゲームも可能かもしれません。例えば,c, a, rという順番でアルファベットを教師が読み上げ,それを並べてできるcarという単語が「カー」と発音できたり,「車」という意味だとわかったりすることができるか,というように。順番通りではなくランダムなものを並び替えればよいというゲームにする(例: a, t, cをcatにする)ようにすれば,難易度があがりそうです。
6/6に,名古屋大学にて第14回日英・英語教育学会(JABAET)研究会が開かれることになりました(詳しい内容はこちらから)。
そこで,論文批評というのがあり,私が文法指導のビリーフに関する次の論文の概要報告を担当することとなりました。
Schulz, R. A. (2001) Cultural differences in student and teacher perceptions concerning the role of grammar instruction and corrective feedback: US – Colombia. Modern Language Journal, 85, 244 – 258. doi: 10.1111/0026-7902.00107
私の概要報告のあと,JABAETの会長である安間一雄先生(獨協大学)より論文の批評があります。私に与えられたのは15分のみで,私のコメントは本番で話すことはなさそうなので,ここに論文を読んだ私の感想を書いておきます。
とにかく表が多くて項目ごとにパーセンテージをひたすら比較するだけで読みづらく,何がわかったかもあやふやで,それがどう説明されるということもなく,悶々させられました。10年以上も前だからしょうがないよねって感じでもないしModern Language Journalは昔は今ほどレベル高くなかったというのはこういうことなんだなぁと思ったのでした(遠い目
おしまい。
なにをゆう たむらゆう
ご無沙汰しております。新年度が始まり,大学院のゼミ,非常勤の授業,自分の研究,と,慌ただしい生活が始まりました。
そんな中,昨年度acceptされた論文が,ついにpublishされて手元に届きました。全国英語教育学会の紀要であるAnnual Review of English Language Education in Japanです。
先輩の草薙さんとの共著で,
Asymmetrical representation in Japanese EFL learners’ implicit and explicit knowledge about the countability of common/material nouns.
という論文です。合格点ギリギリで通ったので,査読者との相性も含めて,「ラッキー」だったのだなと思っています。今年は本数も多くて紀要自体分厚めでしたし。その反動で,来年はちょっと厳しくなるのではないかなと邪推しています。
Anyway. 私自身,論文をすっきりと書くのがどうもニガテで,うまくまとめることができず,いつも規定の語数(またはページ数)におさめるためになんとか削って削ってギリギリにおさめるということを繰り返しています。ARELEに載った論文も例外ではなく,正直16ページにおさめるのに相当苦労しました。その関係で,謝辞を書く余裕もなくなってしまいました。というわけで,あの論文のacknowledgementをこの場を借りて書きたいと思います。
まず,あの論文は,昨年度の全国英語教育学会徳島研究大会での口頭発表をもとにしたものです。台風で天候も悪い中,朝一番の私の発表に来てくださった方々,またコメントをいただいた方々にまずはお礼を申し上げます。
また,データを取って口頭発表する前の段階で,名城大学の松村先生が主催する勉強会でも発表させていただきました。その勉強会でもコーパスの頻度データの話などに関して有益なコメントをいただきました。松村先生をはじめ,桃山学院大学の島田先生,静岡文化芸術大学の横田先生,愛知教育大学の藤原先生に感謝を申し上げます。
学内のゼミの方々にもご指導頂きました。口頭発表の後,論文の体裁として書き上げたものを,木下先生のゼミで発表させていただきました。もうデータも取って論文の形になっていたものでしたから,あとは「どう書くか」というところだったわけですが,うまく伝わっていない部分が明らかになり,そこを修正した上で最終的には提出しましたので,木下先生をはじめ,ゼミでコメントをいただいた方々にもお礼を申し上げます(指導教官のY先生のゼミでは一切発表もせずにsubmitしたものというのがヒィィという感じではあります)。
最後に,同じ研究室の隣の隣の席の福田さん。彼の論文(彼の論文もARELEの同じ号に掲載されています!)の謝辞には私の名前が入っていたので(さらにはARELEに掲載された論文を引用していただいてもいる…!),私の論文で彼に対する謝辞を述べられなかったことはとても残念でなりません。毎日のように意見交換し,彼と話す中で自分の考えが整理されていったことは言うまでもありません。その過程がなければ,あの論文が採択されていたかどうかはわからないといっても過言ではありません。本当に感謝しています。そして,これからも一緒に(あと1年しか同じ研究室で過ごす時間はないかもしれませんが),切磋琢磨していきましょう。彼と共著の論文を出版することが,私の今年度の目標でもあります。
同じ大学院生で,単著でARELEに掲載されている方がたくさんいる中で,このようにブログで謝辞を綴るなどというのは「舞い上がっている」のかもしれません。しかし,私にとっては初めての第一著者としての掲載論文であり(査読なしの論文を含めても),私の出発点ともなる論文になることでしょう。これからも,「一発屋」だとか,「草◯の名前がないと載らない」等々言われないよう,一層研究に励んでいきたいと思います。
ということで,これからもご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします。
なにをゆう たむらゆう
おしまい。
たしかに,「努力すればなんでもできる」という言葉は魅力的である。そう言って学習者の心に火を付けられる指導者がいるとすれば尊敬に値するだろう。しかしながら,「努力すれば何でもできる」は「できなかったのは努力しなかったからだ」も同時に意味することに注意したい(論理学上の対偶である)。
これは本章で見たとおり,明らかにナイーブすぎる社会観である。そればかりか,他者に対する想像力を欠いているという意味で,不誠実ですらある。「努力」をするためのスタートラインにすら立てない人が存在するという事実を初めから無視しているからである。(Ch.2, p.49)
参加・発表の申込みはこちらから -> https://atnd.org/events/63359
Language Teachingにまたこれ系の論文出ましたね。
僕自身語彙とかの研究やっているわけではないのですが,「現場受け」しそうだよなぁという印象はありますこういうの。Language Teachingは明示的にreplicationとうたっている研究が最近多い感じしますね。それはいいことだと思います。
ちなみに,今年度後期の授業でvan Zeeland & Schmitt (2012)のレビューをしました。資料はこちら。
読解にしろ聴解にしろ,「読めた」「聞けた」「理解できた」とするためには正答率何%が適切なのか?またそれはどのような基準で決めるのか。というのがすごく難しい問題だよなという印象です。
なにをゆう たむらゆう
おしまい。
おなか減ったけど冷凍していたご飯もなくなってしまったので夜ご飯はパスタにしました。冷蔵庫にあったのはベーコンとえのき茸のみ。さてなにパスタにしようかなと悩みましたが和風パスタにすることに。かつお節が決め手です。以下,簡単に作り方。
材料
作り方
1. まず鍋にたっぷりのお湯を沸かしましょう。
2. お湯を湧かしている間にベーコンを1センチ幅に,きのこ類も準備。エリンギ切るならベーコンと同じくらいの大きさになるようにスライスするとよいでしょう。
3. フライパンに油をひきます。鷹の爪入れる人はここで種とって輪切りにした鷹の爪を入れて弱火で香りをうつします。
4. お湯が湧いたら塩をたっぷりいれてパスタを茹でましょう。ゆで時間はパッケージの時間マイナス1分が目安。
4. フライパンの温度があがったらベーコンを投入して少し炒めて,きのこ類を投入しましょう。
5. きのこ類がしんなりしてきたらちょっと塩コショウして一旦火をとめます。
6. フライパンに醤油,お酒,砂糖orめんつゆ,かつお節パックの半分をいれて,火にかけます。ちょっとまぜまぜして調味料と具材を絡ませましょう。
7. パスタを一本すくって食べてみて,芯がほんの少し残るくらいになったら鍋の火をとめます。
8. 湯切りはせずに,鍋から直接フライパンにパスタを移します。こうすることで,ゆで汁もフライパンに適度に入ってソースがいい感じになります。
9. パスタをフライパンに移したら,具材とすばやくまぜて煽ります。ここでは具材,ソースとパスタを絡めることが目的なので,手早くやるのがポイントです。
10. いい具合に具材とパスタが絡んだら火をとめて,お皿に盛ります。
11. 最後にかつお節パックの残りをパラパラとかけて完成です。万能ねぎがあればパラパラとかけてあげると見た目もぐっとよくなります。
というわけで,ベーコンとえのきの和風パスタでした。グリーンアスパラを薄く斜め切りにして使ってみても和風な味付けと相性いいでしょうね。あとはほうれん草でもいいかも。ちなみに,めんつゆオンリーで味つけしてもそれなりにはなると思いますが,ちょっと甘すぎると思ったので今回は使ってません。かつお節を1パック使うので,それでだしの代わりになりますしね。ソースと具材の組み合わせでいろんな楽しみ方ができるパスタ。かつお節をたっぷりいれるこの和風パスタの作り方,みなさんもお好きな食材で試してみてください。
なにをゆう たむらゆう
おしまい。