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Yu Tamura について

第二言語習得の研究者。博士(学術)。英語教育のことや統計・データ分析に関わること、趣味のサッカーのことなどについて書いています。

『英語教育』2023年5月号記事の補足

はじめに

大修館書店の『英語教育』誌の特集記事の1つとして,私の記事が掲載されました。紙幅の都合で丁寧に議論できなかった部分について,このブログ記事で補足したいと思います。ちなみにですが,書いていたら本編の数倍の量になってしまったので,もはやどっちが本編かわからない感じになりました。ただ,ああいう短い原稿の背後にはこれだけ書けるくらいの話があるということは思っていただいていいかもしれません。また,ネタバレ的になりますがこのブログ記事ではフィードバックの話まで結局たどり着けませんでしたし,3つ目のQについての補足も書いていません。よって,本来であればこの記事よりもさらに長い文章を書いてようやく自分としては満足かな,という感じです。

英語教育2023年5月号

「裏付け」という言葉との向き合い方

この特集記事の執筆依頼を受けたときの最初の気持ちがこのツイートです。

この特集のタイトルが「新学期の指導に裏付けをー言語習得なぜなに相談室」というタイトルになっていることからもわかるように,この特集の意図は,ある指導の選択をする際に,それが何らかの科学的知識に基づいている方がよいだろうという前提があるように思います。そのうえで,その科学的知識を専門家が解説する記事を書く,という感じですね。

最初に私がラフ原稿的に書いたものの中では,「はじめに」の節は次のように書いていました。

この特集記事の執筆依頼を受けた時,最初に考えたことは,「大学院生の頃,『タスク・ベースの指導をめぐる疑問と解決への道』という章を分担執筆で書いたなぁ」ということであった。5年以上も前に書かれたその本は,今でもTask-based Language Teachingについての和文文献としてもっとも優れたものではないかと思っている。

本稿では,そこでは触れなかった疑問を取り上げ,私なりの回答を書こうと思う。ただ,今回は「指導に裏付けを」という特集だということを聞いたとき,実のところ私はあまり執筆に前向きな気持ちになれずにいた。なぜなら,私は指導の問題は「裏付け」のようなもので正当化することになじまないと思っているからである。

後述するように,私は学習者の誤りはすべて訂正されるべきとは思っていないが,英語教師の中には学習者が誤りを犯すのは教師の指導が足りないからであり,学習者の誤りは教師が正してやり,誤りがなくなるまで徹底的に練習に付き合うのが教師の仕事だと考えている方もいるかもしれない。そのような意見の対立に,「裏付け」のようなものは無意味である。もし仮に,徹底的に学習者の誤りを訂正し,誤りを許さない鬼教官のような教師のもとで学ぶ教室と,誤りの訂正はときおり受けるが,誤りを犯すことが悪いことだとみなしていない教師のもとで学ぶ教室を比較した大規模ランダム化比較実験があったとしよう。その結果,前者の教室で学ぶ学習者のほうが言語能力が統計的に有意に伸びることが明らかになったとする。そのような「裏付け」が仮に得られたとして,私は次の日から鬼教官になって誤りを徹底的に訂正する英語授業を展開するだろうか。答えは否である。なぜか。私はそのような指導を受け入れられないという信念があるからだ。

下記の質問と私の回答も,いくつかの文献を引用しながら述べるが,だからといって私は「裏づけがある」とは言わない。本稿をお読みいただいた上で,どのようにすべきかは読者の方々に判断していただきたい。

例が少し長いのと,ちょっと誤解を招く可能性もあるかもしれないなという指摘を受けたので,最終的には事実判断と価値判断を同一視してはいけない,という話に変えました。

言語習得研究において,指導の「裏付け」となるような科学的知識が提供されたとして,それが直接的に教室での指導の変更を迫るものであったり,あるいはすでに採用されている指導の直接的な後押しになるかというと,正直微妙ではないかと思っています。また,よくpedagogical implication(教育的示唆)なんかが研究発表や論文で求められる場合がありますし,質疑応答でそういう質問を受けることもあります。ただ,その「示唆」というのが結構厄介で,教育的示唆を出そうとすると価値判断に踏み込むことを避けられないというか,無意識のうちに価値判断をしてしまうこともあると思います。

例えば,私が記事の中で紹介したEllis et al. (2019)についても,研究の結果からわかったことは,ある特定の文法項目の指導を事前に受けることによって,その項目へ注意が必要以上に向けられた結果,その他の文法項目の正確性が下がってしまうことで,全体の文法の正確さが下がってしまうという可能性でした。また,正確さへの注意が促進されたことで,流暢さが下がってしまう可能性も示唆されました。ここで私が「可能性」と書いたのは,この結果はあくまで個別の研究の結果だけだからです。よって,そこまで強い言明はできないという留保はつけるべきです。

そして,この研究結果を引用して「事前の文法指導は避けたほうがいい」と私は書きました。これは明らかに価値判断です。Ellis et al. (2019)の結果(ケース1ですが科学的知識とします)と,「事前の文法指導は避けたほうがいい」という価値判断の間には,「特定の文法に学習者が注意を向けた結果として全体のパフォーマンスが下がるのであれば,それは好ましい指導介入ではない」という別の命題が隠れています。

「なぜなに相談室」という特集のタイトル

これは絶対に原稿には書けなかったことですが,そもそも「なぜなに相談室」という特集の名前自体が読者と著者の対立を煽っているように思いました。つまり,読者は「教えてもらう」側で,書き手は「教える」側だという構造です。4月発売の号なので,4月から新しく教壇に立たれる新任の先生方向けの企画なのだろうということは思っています。それはわかった上で,この雑誌の読者の多くは「現場」の先生方であることを考えると,そういう先生方に(仮に新任の方をターゲットにしていたとしても),大学教員の私が上から目線で何かを説くというような企画自体も,私が執筆をためらった理由の一つでもあります。teacher-researcherの対立は昔から言われていて,最近だとModern Language Journalで関連する話題の特集号も組まれていたと思います。もちろん『英語教育』誌の著者は大学教員だけではないわけですが,読み手が常に何かを教えてもらう立場であるということを暗示するような企画は個人的にはどうかなぁと思います。

そういうことを思っていても依頼が来た時点では何も言わずに原稿執筆していて,さらに原稿料ももらってる時点で私も同罪というか,こんなところで批判したところであまり意味はないのですけれど。

書き起こしについて

Q2についての回答で,書き起こしについて言及しました。このトピックの研究や,具体的な方法,実施の問題について詳述できませんでしたので,少し細くします。

発話を書き起こすという行為を学習行為として位置づけたLynch (2001)は,書き起こすという行為を導入しようと考えたきっかけとして,アウトプット活動や学習者の活動によって授業時間がいっぱいいっぱいになった結果,学習の振り返りの機会が失われてきていることへの危惧に言及しています。また,学習者が自身のパフォーマンスを改善していくという学習の営みにおいて,高熟達度の学習者だけが何を改善しているのかという自分自身のパフォーマンスの分析がよくできており,低熟達度の学習者には教師からの手助けが必要である(そうでないとうまくできない学習者が存在する)という自身の経験にも触れています。

やや余談ですが,このLynch (2001)が掲載されているのはELT Journalという雑誌でどちらかというと実践色が強いです。統制した実験研究とか,群間比較の介入研究とかよりはこういう教師の実践に基づいた論文が載っているイメージですね。ただ,かといって書き起こすという行為に何ら研究の知見が応用されていないかというとそういうわけでもありません。中心的なのは気づき仮説ですね。言語形式への気づきが第二言語学習を促進するという。ちなみに昔気づき仮説に関してこんな記事を書いたこともあります。

https://tam07pb915.wordpress.com/2014/07/29/explain-noticing/

脱線しました。このLynch (2001)が実際にどのようなことをやったのかという話をしましょう。Lynchはこの以前にやっていた実践で,”proof-listening”という活動をやっていたそうです。誰かの発表を録画しておき,それを再生しながら改善点をコメントしたりすることを繰り返していく活動のようです。しかし,現実的な問題として,コメントで指摘が入ったことに対して「言った言わない問題」が発生することがあったそうです。この問題の解決策の1つとして,学習者に書き起こしをさせよう,ということです。

私は寄稿した記事の中で,次のように書きました。

(前略)書き起こしをすることによって,活動中には気づくことのできなかった学習者の誤りを指導する機会にもなりうる。

これは,いくら教室での観察にエネルギーを注いでもすべてを聞き取れるわけではないので,書き起こしとして活動後に残るものがあれば,形式面の指導を事後的に行う際の参考になりうるという意図で書きました。ただし,学習者の書き起こしは不正確であるために注意が必要であるという指摘もあります(Stillwell et al., 2010)。

“In some instances, there were substantial portions of the recording missing from the student transcript, in which case the entire chunk was counted as only one error. The prevalence of these errors suggests that student transcriptscanprovideanindicationofperformance,buttogetaclear picture of what is really happening during task work, there is no substitute for engaging with students and monitoring classroom interaction firsthand.”

(Stillwell et al., 2010, p. 448)

学習者によってかなりのばらつきはあるようですが,書き起こしの指示とある程度の練習,そして学習者に対して,どういうものを教師が求めているのか,そしてそれをなんのためにやっているのかを説明すること,が重要かなというのは,個人の経験からも言えます。

実践的な話

書き起こしをするためには,録音・録画をするための機材が必要になります。それも,1台や2台とかではなく,モノローグであれば学習者一人ひとりに1台ずつ,ペアであればクラスの人数の半分必要になります。一昔前であれば,そんなことはLL教室でもなければ無理だったかもしれません。今は,公立学校でもタブレット端末が一人に一台あるような環境もありますよね。また,高校であれば携帯を持っている学習者もかなり多いでしょう。もちろん,個人のプライベートな端末を授業に利用することに関しては否定的な向きもあるかと思いますが。ただ,教師が数十台のICレコーダーを配る,というようなことをしなくてもいいような環境にはあるような気はしています。

タブレット端末はあるけど,有効な活用法がなかなか思いついていない,というような場合は,書き起こしというのはデバイスを活かす一つの手段ではあると思います。

もう一つ,実践上で論点となりそうなのは,おそらく時間でしょう。例えば発話が数分と短くても,実際に書き起こしをしようと思えばその数倍以上の時間がかかると思います。活動にもよりますが,数分で完結するようなものよりも10分あるいはそれ以上の会話が必要となるスピーキング課題もあると思います。そうなると,それをすべて書き起こすのは労力もかかりますし,途中で飽きてしまうこともあるでしょう。先述のLynch (2001)では,ロール・プレイタスクの中の90秒~120秒を選んで書き起こしをさせています。その後,書き起こしたものに言語的な修正を施させたあとにワードに打ち込ませて教師に渡し,教師がさらに言語的な部分の修正をした上で返却し,自分たちが打ち込んだものと教師から直されたものを比較する,というプロセスで進んでいきます。

書き起こしたものを修正させるプロセスで,Lynch (2001)が報告している4ペアの修正はpositiveな改善(incorrect -> correct)が平均で20ほどであったと報告されています(correct -> correct, correct -> incorrectの修正も合わせると平均で28)。90秒から120秒でもそうなるということですね。ちなみに,学習者が修正をしたあとにも語彙を中心に教師がさらなる修正をする必要があるという点にも言及があり,4ペア合計で,学習者6:教師4の割合で修正があったと報告されています。教師がどこまで修正をするかというのは次節の誤りの訂正にも関わる問題ですが,Lynch (2001)のようにするには日本の多くの環境ではクラスサイズの問題でできないでしょう。ただ,仮に教師が介入しなかったとしても,学習者自身でできたpositiveな改善は70%ほどであり,学習者の修正が誤っていた場合は全体の9%です。つまり,この9%を正しい修正にすることに注力するだけでも,つまりそれ以外は直さなかったとしても,学習上で大きな問題はないと言えるかもしれません。

ただし,Lynch (2001)の参加者は年齢は明らかにされていませんが,EAP(English for Academic Purpose)クラスの学生でTOEFLが520点くらいと書いてあるので,論文中では熟達度はそこまで高くないと言われていますが,個人的には,そしておそらく日本で英語を教える多くの方からすれば,むしろ熟達度は高いほうだと思われるでしょう。つまり,学習者のレベルが低い際にはこれほど多くの気づきが起こり,そして学習者たち自身で正しく修正できるかどうか,ということは留意が必要でしょう。また,ポスター・プレゼンテーション形式で発生したインタラクションを録音して書き起こしをさせたStillwell et al. (2010)では,学習者の誤った修正は1度目で32%,2度目で20%と報告がありますし,修正の回数もLynch (2001)で報告されているものより少ないです。Stillwell et al. (2010)とLynch (2001)では様々な違いがありますが,日本の大学1年生を対象にしているという点では,前者のほうが参加者は日本で英語を学ぶ学習者に英語を教える方々(『英語教育』誌のメイン読者)にとっては参照しやすいのかなと思います(ただ,かといって安易にLynchの実践は日本ではうまくいかないとか参考にならないとかそういう短絡的な話をする意図は全くありません)。

いくつかの研究

Hsu (2019)

記事内で言及したHsu (2019)は,タスクの繰り返しの効果と,タスク後の書き起こしがスピーキングの複雑さ,正確さ,流暢さ(Complexity, Accuracy, Fluency, いわゆるCAF)にどう影響するか,ということを調査した研究です。デザインとしてはスピーキングタスクを繰り返すだけのグループ(Task reperition; TR),繰り返しに加えて書き起こしもするグループ(Task repetition and post-task transcribing; TRPT),コントロール群の3つに学習者を分け(n = 13),同じタスクの繰り返しと,同じタイプの新しいタスクでCAFを比較するというものです。用いられたのは,6コママンガの描写です。全部で3つのタスクがあり,TR群とTRPT群は1回目->1回目の繰り返し+2回目->2回目の繰り返し+3回目というように合計で5回スピーキング課題に取り組み,コントロール群は3つのタスクを1度ずつしか行っていません。

書き起こしの指示は次のようになっています。

“Please download your own audio files, listen to each phrase repeatedly, transcribe the actual words (including mistakes, false starts, repetitions, and reformulations) you used as closely as possible in a MS Word document. Save it as “Original transcription”. Then, check the transcription and correct any mistakes you made regarding grammar, sentence structure, and vocabulary (please use the track change function). Save it as “Corrected transcription”. Post both the original and corrected transcription onto i-Learning. You have a week to have this assignment done.”

(Hsu, 2019, p. 187)

自分の聞いたものを間違えとかも含めてすべて書き起こし,Word上で変更記録をONにして気づいたものはなんでも修正をかける,ということが求められています。ポイントは,書き起こしがスピーチの全体に対してであること(1コマにつき最低4文でという指示で時間制限はないので,全体の分量がどれくらいかは不明)と,書き起こしに1週間という期間が与えられている点です。

分析の対象になったのは2回目の繰り返しと,3回目の新しいタスクのパフォーマンスです。同じタスクを繰り返した場合には,TR群とTRPT群ではCAFの指標のうちで有意差が見られたのは正確さの指標であるerror-free clausesのみでした(正確さについては有意になってないけど効果量が中程度とか議論されていますが,そういう効果量の解釈はダメ,ゼッタイ,なので無視します)。

一方で,新しいタスクにおいては3つの正確さの指標(Error free AS-units, Error-free clauses, Accurate verbs)のすべてにおいてTRPT-TR群の間に統計的に有意な差があり,accurate verbs以外の2つではTRPT群はコントロール群とも有意差がありました。しかしながら,TR群とControl群の間には3つの指標全てで統計的に有意な差は確認されていません。また,複雑さと流暢さでも3つのグループ間には有意差はありませんでした。正確さのみに違いが現れたことは,Skehanのトレード・オフ仮説で説明されていました。余談ですが,CAFってほんと指標の選択が恣意的で厄介なので,取り扱いには注意が必要です(cf. Fukuta et al., 2022)

また,TR群とコントロール群の間に差が見られなかったことについては次のような説明があります。

“One possible explanation is, as Gass et al. (1999), Kim (2013), and Kim and Tracy-Ventura (2013) suggested, learners’ disinterest in the tasks given to them when the tasks have been carried out before. It is possible that when repeating the same task, the learners may just want to get the task done and thus did not take advantage of the content familiarity and devote effort to attend to the language formulation aspect of the task, leading to limited L2 development in the new context.”

(Hsu, 2019, p. 183)

この話って,普通の言語教師が教室でタスクの繰り返しをしようとした際には起こらないだろうことなので面白い(皮肉)ですよね。ただのモノローグ・タスクを,聞き手のいない状態で何回も繰り返したらそりゃあ繰り返すことの意味を感じないでしょうね,という話です。これが例えば,与えられた6コマ漫画の内容を知らない相手に対して伝えるという課題で,聞き手側が変わる(つまり別の聞き手に同じことを説明する)のような工夫がされているだけでも,話し手側がどのようにその課題に取り組むかは変わってくるはずです。

実際,話し手が存在し,さらにペアの相手が変わるような仕組みがある前述のStillwell et al (2010)は,タスクの繰り返しに対して学習者は肯定的にとらえていたという質問紙の回答結果を報告しています。

このHsu (2019) の研究の解釈の注意点は,タイトルにもあるようにあくまでタスクを繰り返すということとの”combined effect”であるという点です。本来ならば,2*2のデザインで次のようなデザインをするほうがベターなのでは思いますし,私ならそういう計画をすると思います。

  • TRなし・PTなし
  • TRなし・PTあり
  • TRあり・PTなし
  • TRあり・PTあり

こうすることで,TRのみの効果と,PTのみの効果を分けることができるので,同じ時間的な制約のなかで,同じタスクを繰り返すべきなのか,それとも繰り返しを書き起こしにするほうがいいのか,みたいな問いにも答えることができるようになると思います。TRなしといっても,同じタスクの繰り返しはないだけなので,厳密に言うとTR要因はprocedural repetition vs. exact repititionということになるでしょうけど。

さあ!Instructed SLAが好きな方はぜひこれで実験やってみてください。

Hassanzadeh-Taleshi et al. (2023)

さて,先のHsu (2019)の結果に対して,同じようなデザインで逆の結果を出しているのがこのHassanzadeh-Taleshi et al. (2023)です。こちらの研究の特徴は,タイトルにもあるように,タスク後「すぐに」書き起こしをさせることの効果です。前述のとおり,Hsu (2019)では1週間という期間がありました。ということで,書き起こしとタスクの繰り返し(exact repetition)をすぐにやったらどうなるか,というのがこの研究です。

参加者は38名で,19名ずつがタスクの繰り返しのみのグループ(TR)と,タスクの繰り返し直後に書き起こしをするグループ(Task repitition and immediate post-transcribing; TRIPTに分けられました。この研究での課題はトムとジェリーの動画を見てそれから内容を口頭で説明するモノローグ課題でした(制限時間はなし)。両グループともに,1週目(実際には1週目に熟達度テストがあるので2週目だが)に同じタスクをやり,次の週にもう一度同じタスクを,今後はビデオを見ることなしに行いました。TRIPTグループはその直後に書き起こしをしましたが,書き起こしを修正したり,それに対して訂正フィードバックはもらっていません。その後にもう一度同じタスクを繰り返しました。TRグループは,書き起こしをせずに1回目のあとにすぐに2回目のスピーキング課題を行いました。さらにその1週間後に両グループともにもう一度ビデオを見て同じタスクを繰り返しています。そして,直後の繰り返しと,1週間後の繰り返しの時点での発話データをCAFの指標で分析して群間比較を行っています。

結果として,CAFのどの指標でも両グループの間には統計的に有意な差は確認されませんでした。Hsu (2019)とは異なる結果が得られた理由について,著者らは次のように述べています。

“Despite the fact that compared to the TR group, the TRIPT had more time but they had to use the time available to transcribe their first oral performance in its entirety. The time and post-transcribing were only enough for the TRIPT group to detect their oral errors through comparison, but not enough to integrate the correct form into their second and third performances. This is despite the fact that the discrepancies that the participants managed to notice had already been part of their interlanguage system. In Hsu’s(2019) study, the learners were given a considerably longer time, i.e. a week. The time given to the L2 learners allowed them to transcribe their task rehearsal, correct their mistakes, to spend time reflecting on the post-task transcription. This may in part have led to stronger treatment effects on accuracy.”

(Hassanzadeh-Taleshi et al., 2023, p. 141)

書き起こしによって誤りに気づいた可能性はあるが,それが直後の,そして1週間後のパフォーマンスに影響をもたらすには十分ではなかった,ということですね。1週間の時間があれば,書き起こして,間違いを直して,そして自分のパフォーマンスを振り返るのに十分な時間があったはずで,だからこそHsu (2019)では正確さがあがったのだろうと考察しています。

また,繰り返しを求められることが参加者には明かされていなかったので,繰り返し時のパフォーマンスがより即興的であったことも原因として言及されていました。個人的には,動画を見て,そしてその内容を記憶した状態での再話と,絵を見ながらの描写はぜんぜん違う活動であり,前者(Hassanzadeh-Taleshi et al., 2023で用いられたもの)のほうが負荷が高くより記憶力が要求される課題であったことも大きな要因ではないかと思っています。実施の条件がこれだけ違えば,結果が異なっていたとしても不思議ではないというのが本音です。いわゆる「トップトップ」のジャーナルの論文じゃないから,と切り捨ててしまうのは簡単ですが,こうした介入研究を積み重ねたところで果たして「裏付け」といえるものが得られるのだろうか,というところは,ISLA研究者は問われると思います。

おわりに

誤り訂正については多くの研究の蓄積がありますが,そのあたりにも全体としての傾向についてしか言及できておらず,その中身や具体的な研究には言及できませんでした。この部分もブログで補足しようと思っていたのですが,ここまでですでに補足というよりこっちが本編ではみたいな長さの文章になってしまいましたので,またいつかの機会にしたいと思います(本当はここまででもう力尽きただけです)。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

引用文献

Fukuta, J., Nishimura, Y., & Tamura. Y. (2022). Pitfalls of production data analysis for investigating L2 cognitive mechanism: An ontological realism perspective. Journal of Second Language Studies. https://doi.org/10.1075/jsls.21013.fuk

Hassanzadeh-Taleshi, M., Yaqubi, B., & Bozorgian, H. (2023). The effects of combining task repetition with immediate post-task transcribing on L2 learners’ oral narratives. The Language Learning Journal, 51(2), 133–144. https://doi.org/10.1080/09571736.2021.1901967

Hsu, H.-C. (2019). The combined effect of task repetition and post-task transcribing on L2 speaking complexity, accuracy, and fluency. The Language Learning Journal, 47(2), 172–187. https://doi.org/10.1080/09571736.2016.1255773

Lynch, T. (2001). Seeing what they meant: Transcribing as a route to noticing. ELT Journal, 55(2), 124–132. https://doi.org/10.1093/elt/55.2.124

Lynch, T. (2007). Learning from the transcripts of an oral communication task. ELT Journal, 61(4), 311–320. https://doi.org/10.1093/elt/ccm050

Stillwell, C., Curabba, B., Alexander, K., Kidd, A., Kim, E., Stone, P., & Wyle, C. (2010). Students transcribing tasks: Noticing fluency, accuracy, and complexity. ELT Journal, 64(4), 445–455. https://doi.org/10.1093/elt/ccp081

研究だけができるか授業だけができるかを選ぶとすれば、どちらを選びますか?

はじめに

Querie.meでいただいた質問シリーズ。質問はタイトルのとおりです。「もしも」の話だというのは当然理解した上で以下の回答は書いていますが,真面目に考えすぎたかもしれません。

回答

私は自分が担当する授業の中に,語学,講義科目,ゼミ,という3つの種類があります。よって,語学の担当がない大学教員の方と私では,大学の授業に対する考え方や,あるいはどのように大学教員の仕事を捉えているか,自分の大学教員としての今後のキャリアに対する考え方も違うのかなと思います。

何が言いたいかというと,「授業だけ」といったときに,それが語学の授業だけなのか,講義科目だけなのか,ゼミだけなのか,またはいずれかの組み合わせなのか,色々なパターンが考えられますよね。よって,「授業だけ」と言ったときのイメージって人によって違いそうだなということです。また,「だけができる」というのを私は「それしかできない」と読みましたので,授業だけしかできない(研究はやりたくてもできない),研究だけができる(授業はやりたくてもできない),という環境は,大学教員という職業を前提に考えたときには前者はあっても後者は少なくとも私の分野ではないのではと思います。

さらに,前者の場合でもその場合の「授業」というのは語学の授業のみを指すことがおそらくほとんどで,講義科目やゼミだけしかできないというのはありえないのではないかと思います。もしそういうのがあるとしたら,それは授業だけしかできないのではなく,「研究はできるけれども授業だけしかやっていない」ということでしょう。そして,私はそうなっちゃいけない,なりたくないと思っています。もちろん,勉強と研究は違いますから,めちゃくちゃ勉強すれば良い講義はできると思いますが,それをする意欲や時間はあっても研究をする意欲や時間はないっていうのはあまり想像できません。さらに,ゼミとか研究の指導とかをするのであれば,研究をやっていないのに研究の指導をすることはできないのではと思います。

したがって,私は英語教員としてのアイデンティティはありますが,英語の授業だけをやっていればいい環境があったとしても,そちらは選ばないと思います。英語だけ教えるのでいいのであれば,この職業を選んでいないというか。最初の動機というか,学校教員にならなかった理由の一つとしては,自分には授業以外の部分の教育活動が向いていないと思った(つまり,授業を中心にやっていたかった)という部分が大きいです。しかしだからといって,英語を教えることだけをやりたいがために博士課程までわざわざ行きませんよね。

それはやはり,自分には研究者としてのアイデンティティも備わっているということだと思います。また,研究者というのは研究コミュニティの維持と発展というのも仕事の一部だと思っています。そのためには,研究コミュニティに参画する人を増やしたり,そのコミュニティに属する人たちの知識やスキルを上げていくことにコミットすることも必要になると思います。そして,教育というのはまさにそこに繋がる仕事だと思っています。したがって,教育はできないけど研究だけはできる,という状況は,研究者としての仕事の一部を奪われているとも言えるのではないかと私は思います。

(私の分野の)世界的に有名な研究者をどれだけ思い浮かべてみても,その人達って絶対にそこで学生を指導して,そしてその人達がまた活躍していく,そういうところに絶対いるように思います。派閥的なことになっていくとそれが良いか悪いかみたいな議論も出てくるかと思いますし,そんなことあんのかよっていう話を聞いたこともないわけではないですが,ようするに研究だけじゃなくて教育活動もやってるよね,ということです。分野の特性ももちろんあるでしょうけれども。

さらに,自分に研究者としてのアイデンティティがあると言っても,それだけで今と同じ待遇を得られるほど研究者としての才が秀でているというようにも思えません。となると,やはりそれ以外の部分での自分のスキルも生かすことのできる仕事だからこそ(裏を返せば授業をやらなければいけない仕事でもあるからこそ),今の待遇で仕事をできているのだろうなと思います。

ということで,一言でまとめると,どっちも選びたくない,選べない,ということですかね。どちらかを選ばないといけないとしたら,相当な覚悟を持っていずれかを選択することになるだろうなと思います。

なんだか回答しているようで全然回答になっていないかもしれませんが。とりあえずこんなところで。

質問したい方はどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

先行研究のレビューや良い批判の仕方は、どうすれば学べますか?

はじめに

Querie.meでいただいた質問シリーズ。質問は以下です。

先行研究のレビューや良い批判の仕方は、どうすれば学べますか? 参考になる本や、ご自身がどうやっているか教えてほしいです。

これまた私に聞くの?ってやつですね。私に「良い批判の仕方」を聞くのはちょっと良くないですね。私,「良い批判」ができないことで有名ですから…(ウッ

回答

とにかく大量のインプット

人から学ぶ

自分がどうやって学んだかっていうことを考えると,誰かと一緒に論文や本をたくさん読む経験をしたっていうことが一番大きいような気がします。「誰かと一緒に」がポイントです。自分一人で論文や本を読みまくって,鋭い視点でコメントができるようになる人もいるとは思いますが,そういう人は一部だと私は思っています。私のような凡人は,誰かから学んでいくしかありません。授業でもゼミでも,学外の研究会や勉強会でも,ときにはお酒の席でも,とにかく自分より研究キャリアの長い人がどうやって論文や本を読んで,どういうところに着目しているのか,そういうことを学びながら,だんだん自分もそういう読み方ができるようになっていったのではないかなと思います。

私が博士課程を過ごしたときの環境は,別に自分から求めなくても毎日延々と研究のことを喋り続ける人がいたので,夏の暑い日も,冬の寒い日も,雨の日も風の日も,雪の日も,そういう人たちの話を一生懸命聞いて,その話になんとか自分もついていくということに必死だった記憶があります。

私が博士後期課程1年目の春だったか夏前くらいだったか,先輩が「例えばな,この男と付き合いたいと思うか思わないかっていうのを0/1で考えるロジスティク回帰をするとするだろ。こういう曲線だな」みたいなことを言ったとき,頭の中で「ロジスティック回帰ってなに???」って思ってわけがわからなかったの,今でも鮮明に覚えています。そのあと必死に勉強して,その2年後くらいにRでロジスティック回帰をやるテクニカルレポートを書くことになったわけですけど。

学会でも,発表を理解することとともにどのような質問があがるのかということにすごく意識を集中させて聞いていました。すべての質問が良い質問ではもちろんないわけなのですが,そういうところでも,学びの機会はあります。オンラインの学会だとなかなか「会場の雰囲気」みたいなものを感じることもないですし,そもそも質問も出てきづらいことも多いので難しいかもしれません。ただ,2023年度からは対面開催の学会もまた戻ってくるでしょうし,行くのはめんどくさいですけど行ったら絶対に学び(と出会い)があると思って学会に行きましょう(自分にも言い聞かせる)。

学会のような大きなイベントではなくても,小規模の勉強会や読書会のようなものがあれば,勇気を出して飛び込んでみることをおすすめします。知り合いからそういう話を聞いたら,とりあえず行ってみる,若いうちはとくに誘われたら基本は参加,でいいと思います。英語教育系の院生さんや若手の研究者の方で(いや別に若手である必要もまったくないですが),私が毎月参加している研究会(輪読+アルファ)に興味がある方がいたら,ご連絡いただければ詳細お伝えします。たしか3月の開催日は28日だったかなと思います。

概説書を読む

大量のインプットというのは,自分の知識量を増やすという意味もあります。結局,その分野の枠組みみたいなものを理解していないと,個別の研究をそこに位置づけることもできませんし,それができなければその研究の価値も評価できないわけです。そういう状態では,「良い批判」はおそらくできないのではと思います。そのためには,個別の論文を読むことよりもむしろ概説書を何冊も何冊も読むことが大事なのではないかと,これは博士課程終わる頃くらいに思うようになりました。

後か不幸か,英語教育とか第二言語習得という分野は入門とか概論とかIntroductionというのがつく本が大量にあります(cf. 英語科教育法 「僕・私のこの一冊」 懐かしい思い出と未来への展望と)。中には同じ話をしていることもありますが,同じ話でもどういう文脈でその話が出てくるのかというのは著者のスタイルというか分野の眺め方によって違うわけで,同じ事象を別の角度から眺めることを繰り返すことで知識が深まっていくし,そのベースがあるからこそ個別の研究を批判的に読むことができるようになるのではないかと思います。

むかし,ある人が,「俺が学部生のとき,指導教員だった○○先生は論文より本を読みなさいってずっと言ってて,でも俺は論文を読みたかったんだ…!」って言ってたのを覚えています。彼がいま,このことをどう思っているのかはわかりませんが。私は,その先生の指導があってこそのいまの彼なんじゃないかなと思っています。概説書に書いてあるものは全部知ってることなんだから,新しい知識を得られないじゃないかって思いがちですし,概説書だけ読んでればいいってことはないわけですが,論文読むのと同じくらいそれは大事なことでは?って思うようになりました。

最初からうまくはいかない

誰かと一緒に論文を読むとか,学会に参加するとか,そういう場所では最初はなかなかコメントできずに周りの話に圧倒されるかもしれませんが,それでも声には出さなくても頭はフル回転させて「何を言ったらいいか」を考え続ける事が大事かなと思います。もちろん黙っているだけよりは何か言ったほうがいいわけですが,最初のうちは私も全然議論に参加できていなかったこともありましたから。場数を踏めばそのうち何かコメントできるようになるはずです。それが「良い批判」かどうかはわかりませんが,最初からなにかクオリティの高いものが出せると考えているほうが間違いです。どんなに有名な研究者でもoutput -> feedback -> revisionというプロセスを経て良いものを作り上げていくはずです。そういうことを繰り返していくうちに最初のoutputの質もあがっていくのだと考えたら良いでしょう。私もまだまだ修行の身です。

私は,自分が日々考えていることを文章としてウェブ上に残すという作業を10年以上続けてきました。そのことは,思考->言語化の部分の訓練にはなったと思います。その中には,読んだ本や論文などのレビューも含まれていたと思います。決してうまくまとめられていたとは思いませんが。それでも,ただ読んで考えて終わり,だけではなく,メモ書きで残して終わりでもなく,ある程度まとまった文章にするという作業をすることは,先行研究のレビューにもつながる練習ではあるかなと思います。

もしも,身近に誰かから学びをえるような環境がなかったり,ブログ書くとかそういうのはちょっとハードルが高い…と思うようであれば,書評だったり論文のレビューなんかをウェブ上で発信している人の記事を読むのも有意義だと思います。今はブログで発信している人の数も私の周りでは減ってきてしまっていますけれど。それでも,とにかく色んな人の色んな意見を読むというのは大事ですから。

また,「先行研究のレビュー」というのが,自分の研究に関連する先行研究に関するレビューを書くということを指しているのだとすれば,自分の先行研究のレビューが一番参考になるように思います。もちろん,自分の領域とは違う論文でも,論文を出しまくっている人はレビューが上手なことが多いですから,この人のパブリケーションすごいな,と思う人の論文を読んで,その人がどうやってレビューをしているのかを分析してみるのも良いのではないでしょうか。

このときに,論文のレビューセクションがどういう構造になっているのかを読み解く必要があるわけですが,その際の基礎的な知識として,下記の本は参考になるかと思います。

論文の書き方指南書ですが,「ムーヴ」(Move)という概念を獲得することにより,レビューの構造を把握しやすくなると思います。

それから,分野は違いますが,こんな本もあります。

文学の批評は論文や研究に対して批判的なコメントをすることとはまた異なるものですが,文章の読み方や書き方に関するヒントはたくさんあると思います。

おわりに

あとなにかまだ書こうと思っていたことがあったような気がするのですが,忘れてしまったのでこのへんでおしまいにします。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

論文執筆環境を教えてもえらえますか?特に論文執筆中に活用しているアプリやツールなど

はじめに

Querie.meでいただいた質問シリーズ。このサービスを始めた当初は別に質問をいただいたらブログ記事を書こうなどとは微塵も思っていなかったのですが,気づいたらブログに書くのがルーティンみたいになってきました。いつの日か,質問に答えるのもめんどくさくなる日が来るのかもわかりませんが,そういう日が来るまでは今のスタイルで行きます。質問はズバリタイトルのとおりです。

回答

まず質問を見て思ったのは,「それ聞く人あってる?」です。こういう質問が来る人って,すごくproductiveでめちゃくちゃ論文書きまくってる人なんじゃないかっていう勝手なイメージがあるんですよね。こういう質問をする方っておそらくですが自分のproductivityをあげたいと思っていて,そのために便利なツールやアプリを知りたいっていう動機なのではないかと思うわけです。それを質問するのが全然論文出していない私っていうのはもうなんというか私以外のもっとproductiveな皆さん質問箱でもマシュマロでもQuerie.meでもやってくださいって思います。それか,私だったらなんでも答えてもらえるからまあ聞いておくかみたいな感じなのかもしれないですね…。

長文はScrivener一択

おそらくですが2016年くらいから,論文や本のチャプターなどの長文を書くのはScrivenerというアプリを使っています(MacもWindowsもありますし後発でiOSアプリもできました)。安いものではないので院生さんのような方におすすめするというのはちょっと躊躇します。また,今値段見たら私が買ったときよりももっと高くなっていて,円安か…と思ったりしています。ただ,サブスクのようなシステムではなく一度買ったらずっと使えるという感じなので,その価値はあるかなと個人的には思っています。無料のトライアルもあるので,それで30日間使ってみるというのもありでしょうね。

Scrivenerを一度使い始めたら他のアプリでは論文を書けなくなりました。最後の最後の段階までScrivenerで書いて,最終的にはWordファイルに出力して整えるって感じの使い方をしています。

機能を色々使いこなせているかというとたぶんそういうわけでもないのですが,一番いいのはセクションごとにターゲットの語数を決められることと,全体のターゲットの語数を決められることですね。自分がそのセクションでどれだけ書いているのか,全体の目標語数までどれくらいなのかがわかって,執筆のモチベーションになります。執筆のデッドラインの目標とかも作れます。執筆日は週何日で,いつまでに何語書かないといけないのかとかを入力すると,執筆日に何語書かないといけないのかを計算してくれます。サボったらその分だけ1日のノルマが増えるとかもやってくれるのです。そういう設定を利用しなくてもその日に何語書いたのかとかもわかるので,「今日は100語だけしか書いていないけど,でも何もしていないよりよっぽどマシじゃないか。ビール飲もう」とか,「今日はディスカッションのうちの1節のターゲット語数をクリアできたぞよしよしビール飲もう」とか,そうやってお酒を飲むきっかけ作りにもなります(すな

もちろん構成を考えたりとか,文章の別の箇所や全体像を参照しながら書くとかもすごくやりすいと個人的には思います。やっぱり論文は頭から書くものじゃなくて,書けるところから書いていき,同時に各パートの一貫性も整えながら,最終的に一本に仕上げるっていう感じだと思うんですよね(もちろん人によりますけど)。そういう書き方で進める文章にとって,パーツを自分の好きなように作れるということと,それを好きなように積み上げられること,そしてそのパーツに書く本文とメモ的なものを分けられるっていうのはすごくメリットがあることだと個人的には思っています。

『考えながら書く人のためのScrivener 入門』(https://amzn.asia/d/eNtvvSN)という本も買って読みました。使いながら慣れるっていう感じだと時間がかかる人もいると思うので,Scrivenerを買ってた人にとってはこの本は買って損はないと思います。ウェブ検索するとScrivenerについて書いている記事も結構見つかるのでそれらを読んでみてからScrivenerの購入を検討するのもありでしょうね。以下,検索して上位に出てきた記事3本です。

高機能アウトラインプロセッサ『Scrivener』のメリット・デメリット

Scrivener3徹底レビュー:小説・論文作成のベストアプリ【使い方も解説】

文章執筆統合ソフト「Scrivener3」を使ってみた

3つ目の記事でもあるように,合う人と合わない人がいると思います。機能はモリモリですが,直感的に使いやすいというわけではありませんので。ただ,基本的な機能を一通りマスターしたら全然Wordで書くよりいいので私は気に入っています。プロジェクトをDropboxのようなクラウドサービスと連携させておけば異なるデバイスでも執筆できますしね。

メモ的なものはObsidian

私がメインで使っている,それこそなんでもかんでも放り込む的なものはEvernoteです。パーソナルプラン(年8,100円)で使っていて,これはもう10年以上とにかくなんでもかんでも放り込んでます。特にウェブの記事をクリップできるのがめちゃくちゃ気に入っていますね。読んだもの,あとから読むもの,とにかくなんでもかんでもEvernoteに入れています。

ただ,研究に関してのメモはObsidianにするように1年前くらいですかね?なりました。きっかけは確かanf先生が様々なツールを試していた際に言及していたことだと思います。

Obsidianという刺客が現れた→どうする?→roam researchから乗り換えた

考えるための名前のない技術(2)

思い浮かんだことはとりあえずDraftsに入れて、使いみちを考えるのはその後

私はマークダウン記法信者でもあるので,マークダウン記法が使えるエディタがいいなと思っていて,様々なノートをある程度自動的に結びつけることができる機能があるObsidianに興味が出て使い始めました。

私がScrivenerを使い始めるのは,「この論文を書く」っていうのが決まったときなんですよね。その手前のアイデア段階のものは,Scrivenerで作業し始めるほどのレベルに達していないと個人的には感じます。そうは言ってもアイデアが浮かんだらメモくらいはしておきたいなというときにObsidianを使っています。また,論文を読んだときのメモもObsidianに書くようになりました。

論文のメモは昔はMendeleyという論文管理ツールを使っていたのですが,あるとき急に同期の不具合があってそれまで自分がMendeleyを使ってとっていたメモも含めて全て消失したんですよね。復元もできなくなって。Mendeley死ねクソがと思ってそれ以来,文献管理ソフト上でメモを取るのをやめました(今はZoteroを使っています)。あまりにもリスクが大きいので。外部のソフトウェアを使えば,そのファイル自体は自分のデバイスに保存されますからね,例えばObsidianなら”.md”というマークダウンファイルで保存されますし,その保存先をDropboxやOneDriveなどのクラウドサービスにしておけば,まず間違いなくメモが消えることはありません。

表現的なものはAcademic Phrasebank

論文を書いているときに,表現のvarietyを持たせたかったり,こういうときに便利な表現ないかなーと思ったときにはAcademic Phrasebankにお世話になってます。結構有名なのでご存じの方も多いとは思いますが。

イントロ,バックグラウンド,メソッド,ディスカッション,コンクルージョンとセクションごとによく使われる表現がまとめられている上に,機能(”Being critical”, “Compare and contrast, etc.)ごとにも表現が見つけられるので便利です。ライティングの授業でも学生に紹介しているウェブサイトです。

NTCとNRCは大好きなアプリ

最後に,論文執筆と直接関係はないんですがお気に入りのアプリを2つ。

Nike Training ClubとNike Running Clubです。NTCはワークアウトアプリで,ヨガからストレッチから結構ハードな筋トレまで,めちゃくちゃたくさんのメニューがあります。短いものだと5分くらいで終わりますし,自重だけでできるワークアウトも豊富なのでわざわざジムに通う必要もなく家でもできます。トレーナーの人が一緒に同じワークアウトをしている動画を見ながらできるので,パーソナルトレーナーのついた筋トレのような雰囲気を味わえるのを気に入っています。

NRCはランニングアプリで,距離や時間などに応じて多様なメニューが用意されています。今日は走りたくないけど…というときには10分程度で終わるものがあったり,距離別だと1キロ,1マイル,5キロなどもありますし,コーチが音声ガイダンスで指示してくれます。インターバルトレーニングや,マインドフルネスに特化したプログラムもあり,ただ走るだけではなく音声コンテンツを楽しみながらランニングができます。私自身は2020年は月100キロとか走っていたときもあったのですが,もともとヘルニア持ちで腰からくる股関節痛を発症してからは日常的に走ることはなくなってしまいました。ただ,NRCは本当にランニングのお供としてめちゃくちゃお世話になりました。

もともとNikeが好きということもあり,バッシュ(もう全然最近バスケしてないですが),スニーカー,アパレル(普段着も運動着も),ほぼほぼNikeという影響もあってNikeのアプリに親近感をもったこともあるとは思いますが, NTCとNRCなしでは私の運動習慣は継続していないと思います。論文執筆に直接的に関わるわけではないですが,運動することによって心も身体もリフレッシュできます。さらに,運動しているときって,自分の身体のことだけに自分の意識を集中することになるので,仕事やプライベートの雑念を頭の中から追い出すことができるんですよね。そういった「デトックス」的な時間が日常の中に埋め込まれていると,creativeな仕事も捗るんじゃないかなと勝手に思っています(※因果関係は定かではありません為念)。

おわりに

この記事は,王将で生中×3のあとに帰宅してハイボール×3をしながら書いています。

私に質問したい方は下記URLからどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915

今のところは割と質問に答えるのを楽しんでいます。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

お世話になります。私は大学生であり、ChatGPTの使用に関するラインについて分からない点があり…

Querie.meの回答をブログに書くシリーズ。最近これでしかブログを更新していない気がしてきています。質問は以下のとおり。

質問

お世話になります。私は大学生であり、ChatGPTの使用に関するラインについて分からない点があり、Tamさんに大学教員として今現在のchatgptの使用についてどの程度まで学生に認められると考えられているかご意見をいただきたいと思っています。

一つの具体例として、エッセイ課題(どの言語でも、例はライティングスキルをみる課題)を書く際にどのくらいChatGPTを使用するとチートと見なされると現在お考えでしょうか。

①単語について質問する。e.g. 今まで、例文を確認して”noxious”という単語が自分のエッセイの文脈に合っているか判断していたが、ChatGPTに聞く。代替え案があれば、その英単語を使う。

②文法や構成の質問をする。e.g. 自分が書いたエッセイをChatGPTに改善(redundantなところはないかを聞くなど)の提案を聞き、その改善された文章をそのまま使用する。

③内容の指示をする。e.g. 自分で考えたthesis statementをサポートする内容の提案を聞く。(具体例の提案など)その内容を参考にする。(あるいは使用する)

Tamさんはなんでも活用できるなら時場合に応じて活用すべきだとお考えだと思いますし、ChatGPTの機能を目的によっては活用することができる点もたくさんあると思います。しかし、現在大学においてChatGPTの使用に関するガイドラインがなく、これから課題のエッセイ、レポート、またプレゼンの制作などにおいてChatGPTをどの程度使用していいかわからず、tamさんのご意見をいただきたいと思っています。

よろしくお願いいたします。

回答

非常に良い質問だとは思いますが,授業を担当される先生に聞くのが一番良いと思います。私の意見も質問者様に理解いただいているようですし。もし万が一私の授業を取っている学生であれば,匿名でこういう場所で聞くのではなく直接メールやLMSのメッセージ機能を利用して連絡してください。

剽窃とはまた違うレベルの話なので,認めるか認めないかや,どの程度認めるのかの線引きを教員側が仮に決めたとしても,学生がそれを守っているかどうかを確かめることは教員側からは不可能でしょう。レポート提出課題などは,教室で実際にレポートを書かせて提出させないのであれば,実際に本人が書いているかを確かめようがないというのと同じような話ではないでしょうか。剽窃検出ソフトウェアは,ウェブ上にあるものに引っかかるかどうかしか検出できないので,例えばですが親や兄弟や友達が代わりに書いたものを自分のものだと偽って提出してきた学生がいたとして,そのプロダクトについての質疑応答のようなテストが無い限りはそのプロダクトの本当の著者が誰かは教員が採点するときにはわかりません。ChatGPTを使ったのかどうかも,教員がコントロールできるものではないと私は思います。だからこそ,実際に授業をしている教員に確認するのが最も重要だということです。

というのが回答です。例として挙げていただいたライティング課題の話だと,どれも「チート」と私は思いません。テストや課題のcheatingはもっと悪質性があるものだと考えています。質問者様の「チート」の使い方や意味と,私がその単語をどう解釈しているのかにズレがあると,そもそもやりとりが噛み合わなくなります。したがって,以下では挙げていただいたライティング課題の例で,1から3の行為をしても良いかと学生に聞かれた時に私はどう答えるのか,という点で書きます。

したがって,「Tamさんはなんでも活用できるなら時場合に応じて活用すべきだとお考えだと思いますし、ChatGPTの機能を目的によっては活用することができる点もたくさんあると思います。しかし、現在大学においてChatGPTの使用に関するガイドラインがなく、これから課題のエッセイ、レポート、またプレゼンの制作などにおいてChatGPTをどの程度使用していいかわからず、tamさんのご意見をいただきたい」という部分については,以下をお読みいただいても回答はありません。

どんな力を身につけるための課題なのか

まず大事なことは,その課題を通してどのような力を身につけることが意図されているのかということかと思います。ツールを利用することも含めて能力であるとみなすのか,その個人が持つものだけをその人の能力であるとみなすのかによって,ツールの利用に対する考え方も変わってくるでしょう。私はツールが使えることも,ツールを使わなくてもできることも,どちらも大事だと思っています。よって,ツールを使うことを認める場合や,積極的に推奨する場合でも,それなしでも同じようなパフォーマンスができることを目指してもらいたいと学生には伝えています(目指すだけでそうなれとは言ってないところがポイント)。

アカデミック・ライティングに限って言えば,その「頂上タスク」と呼べるような目標は,エッセイやターム・ペーパーを書くことであったり,あるいは学術論文を書くことであると思います。そのような課題に実際に英語学習者が取り組む際に,実際には一切のツールの利用が制限されるわけでもありませんし,むしろ使えるリソースは何でも動員して言語面のクオリティを上げることが良いとされているはずです。ライティング・センターのような場所でアドバイスを受けたり,学術論文であれば専門の業者に校閲を依頼することも一般的です。そこを目指していると考えれば,ツールを利用することを制限するよりはむしろ,どうやってうまく使いこなせるようになるのかを教えることも目標に近づくための手段としては何も不自然なことではないでしょう。

ただし,そうしたツールがない状態ではエッセイを書くこともままならないのであれば,質の向上の見込める最大値はリソースを総動員しても低いままだと思います。結局は,どういうものがいいエッセイ,いいターム・ペーパー,いい学術論文であるということがわかっていなければいいものが書けませんし,そういうことがわかるために,そしてそれが自分でも一定程度の水準でできるようにするために必要な(リソースなしでの)英語力は身につける必要があるだろうなと思います。

カリキュラムにもよりますが,ツールなしでのライティングも継続的にやっていくことは,ツールがある場合とない場合の差に自分自身が常に自覚的になれるのでやってほしいところですね。英語力とかどうでもいいし,別に単位だけもらえればそれでいいんですという人は,そもそも大学の授業でもらえる単位がなんらかの知識や技能を習得したことにより得られるものであるという感覚もないと思いますので,何でもやっていいんじゃないかと思います。質問者様はおそらくそういう方ではないからこそこうして長文の質問を送ってくださっているのだと思いますが。

形式面の質向上のための利用

1や2はGrammarlyやQuillbotなどのライティング支援ツールを使うのとあまり変わらないと思います。私はこれらのツールをライティングの授業で使うことを推奨しているので,ChatGPTを言語の形式面の質を上げるために使用することを認めないということはないでしょうね。

ただし,私が今年度秋学期に担当していた1年生向けのアカデミック・ライティングのクラスでは,14週目にそうしたツールなしで制限時間付きのエッセイライティング課題を授業内で行いました。ほとんど全ての学生は,その際にツールがないと自分の語彙や文法の知識が圧倒的に不足していてライティングを満足に行えないということを強く感じていたようで,テストの振り返りや学期末のポートフォリオでもそのようなコメントが多くみられました。

ツールを使いこなせばそれなりのものが作れるというのも私は能力であると思っていますが,standardized testなどで測定されるようなproficiencyはそういうものではないので,そこを伸ばしたいと思えばツールを使わないようにしてみるというのも一つの方法なのかもしれません。

内容面のサポート

3についても,Googleで検索して見つけた記事の内容を用いるのとやっていることはあまり変わらないと思います。ウェブ検索を禁じる人はいないと思いますので,3の意味での使用も認めないというのは難しいかなと思います。ただし、ウェブ検索の場合は検索の過程で情報を探し出す,たどり着いた情報を吟味する,得られた情報を取捨選択する,などのような能力が必要となります。こうした能力を重視するのであれば,それはChatGPTではなくウェブ検索でやってもらいたいという意見もありうるかなと思います。

もちろん,ChatGPTの場合も,提示されたものが本当に自分のエッセイにフィットするかどうかを吟味し,提示されたのが複数あればその中から選ぶ必要は出てくるでしょう。しかしながら,ChatGPTに聞く時点で情報はかなり絞り込まれていますので,ウェブ検索で自分の得たい情報を探し出すスキルはChatGPTを使う際には必要ないでしょう。さらに,ChatGPTは平気でそれっぽい話をでっち上げることもあるので,存在しないデータや調査を提示してくるなんてこともあるかもしれません。そうしたことが起こったとしても,それをまたウェブ検索で確かめれば良いという見方もありえますが,それなら最初からウェブ検索で良いのでは?と思います。

辞書は使って欲しい

話を1に戻しますね。1については,辞書は使って欲しいなと私は思います。辞書の例文で確認した上で,自分の判断についてChatGPTの意見を求めるという使い方はいいのではないでしょうか。ChatGPTにどのようなプロンプトを入力するのかによって答え方も変わってきますが,辞書は意味や例文以外にもコーパスのような頻度の情報であったり,文法的な補足が書かれていることもあります。そういった情報に触れる意味でも,辞書は使わない,もうChatGPTでOKというようにはなってほしくないかなと思いますね。少なくとも今の時点では。

理由は理解した上で修正や提案を受け入れる

2の中で文法はともかく構成については,教員が求めるものとChatGPTが出してきたものが必ずしも一致しているとも限らないので,そこは理解しておく必要はあるかなと思います。使用している教科書や題材,エッセイであればエッセイのスタイルなどによって,構成が変化する部分もあるでしょうし,教員が独自に重要視している部分もあるかもしれません。例えば,私は典型的なfour/five paragraph essayにおいて,イントロのthesis statementにボディで言及する内容が含まれているかどうかを重視しています。理由を述べる際に, I believe that this change is necessary because of the following three reasons. のように書くよりは,その3つの理由を簡潔にまとめて,because of A, B, and Cのようにするほうがボディとのつながりが強くなり,結果として読み手にとって内容が理解しやすい文章になるからです。そういうことまで考慮した上で,提示された修正や提案を受け入れるかどうかを判断できるのであれば良いと思います。

また,文法(というか文レベルの話)についても,例えば,「こちらのほうが読みやすいのでこうしたほうが良いです」という理由で修正がなされたときに,その読みやすさは何によってもたらされているものなのかを考える必要があると思います。あるいは,「確かにこっちのほうが読みやすいな」という感覚のようなものを持てているかどうか。そういう判断ができないなら,「使いこなしている」とは言えないでしょう。

おわりに

これは結構いろんな意見の人がいそうですよね。大学がガイドラインを作るっていうようなものでもないかなと個人的には思ったりします。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

三笘選手の英語

はじめに

しばらく前に書いてずっと下書きになっていた記事をようやく公開します。

SNSなどの発達でスポーツ選手が外国語でインタビューを受ける場面をよく見るようになった気がします。昔もYouTubeにあったような気がしますが,今はTwitterやInstagramにもっとたくさん溢れている気がして。私は特にサッカーが好きなので,サッカー選手のインタビュー映像をよく見ます。つい昨日のこと,世界最高峰のサッカーリーグと呼ばれているイングランド・プレミアリーグのFAカップ4回戦で,日本代表の三笘薫選手が劇的な決勝ゴールをあげて強豪リバプールを破ったことが私のTLでは話題になりました。そんな三笘選手の英語でのインタビューについて思ったことを。

彼の英語力をどう見るか

DAZNのハイライトでは試合後のインタビュー映像も最後にありました。それを見ての私の印象は,質問は理解して答えているけど、応答は主にフレーズ単位の表現と使用頻度の高い文(e.g., I think, we won)を並べて答える感じで、日本代表キャプテンの吉田麻也選手のような複雑さ(一文の長さや,従属節の使用など)はあまりない,というものです。ただ,これはまったく否定的な評価をしているわけではありません。むしろ,まず目指すのはこのレベルで機能できる学習者というのが英語教育の目標になって良いのでは,というものです。にもかかわらず,なんなら三笘薫選手どころか吉田麻也選手よりも高いレベルを多くの英語教師は求めていないだろうか,という気がしてしまうのです。ちなみに,吉田麻也選手の英語でのインタビュー例として,カタールW杯の決勝トーナメント1回戦でクロアチアに敗れたあとのインタビューを御覧ください。

We did everything what we can do, we could do.

We are very proud of what we have done.

など,上の例は”everything (that) we can do…”とwhatを使った名詞節ではなく関係節のthatを用いるべきところだったとは思いますが,それでもこうした主節の中に従属節を埋め込むような発言がありますし,一文の長さも長く,流暢さもあります。ちなみに,”everything”と”what we can do”を並列しているという可能性もあり,それなら文法的には問題ありません。We did everything, (we did) what we can doということですね。what we can doのあとにwe could doと言っているのは,おそらく時制の一致をしないといけないとあとから気づいてcouldに言い直したのではないかと推察されます。

では,三笘選手のインタビューです。

吉田麻也選手と比較すると,沈黙やつなぎ言葉(ときにtheに聞こえるようなものも)が多く,フレーズをつなぎ合わせるように発話している印象が強いと思います。

Interviewer: Congratulations on today’s result and your goal was that the best moment for you since you came to Brighton
Mitoma: Yeah. I think the best moment so far because uh yeah uh great yeah at the end of the game, yeah great goal and we won because of the goal yeah so I’m very happy.
Interviewer: Tell me about the goal from your perspective because there was a lot of skill involved.
Mitoma: Yeah this free kick is we prepared so and uh the great ball from the Parvis and good gets the block of the Denis so yeah everyone played well so yeah uh the first touch is good and the kick motion so yeah unbelievable yeah
Interviewer: What is the mood of the team? You must be feeling very very confident as a group now. You’ve beaten Liverpool twice in two weeks
Mitoma: yeah yeah now we have the confidence to play against every opponent so yeah we had prepared well and we we played the tactical well so yeah we keep going and we have to stay humble.
Interviewer: What do you hope Brighton can achieve between now and the end of the season?
Mitoma: It’s not easy to speak because we have to the importance every match so and the next game we focus next game we focus yeah no not the aiming so yeah we we have to keep this tension and uh yeah keep going yeah

YouTubeの書き起こしをもとに一部筆者が修正しています

三笘選手の発話を,「カトコト」とか,「ブロークン」のような形容詞で,不完全なものだと判断するでしょうか。むしろ,インタビューという場面では、あれでインタビュワーと視聴者(ファン・サポーターを含めて)に彼の伝えたいことは伝わっていたのではないかと思います。このレベルで通訳なしでインタビューのやり取りができるようになって初めて,その先の言語のクオリティを上げることに焦点を当ててはどうでしょうか。と私は思ってしまいます。別にサッカー選手に限らず,です。

上の三笘選手の発話の中で私が一つ「おっ」となったのは,最後から2つ目の発言の最後にある,”we have to stay humble”です。humbleは「謙遜した」という意味の形容詞ですが,JACET8000ではLevel7の単語です(一応大辞林にも「ハンブル」というカタカナ語の見出し語はありますが,あまり日本語としてハンブルというのを見聞きする機会は私個人的には多くありません)。それ以外の単語はインタビュアーの方が使っているものも含めてほとんどが高頻度の単語です。おそらく,サッカー選手の発話や監督・コーチの発話にこの単語のインプットが多く含まれているのかなと推察します。だからこそ,こういう場面でもhumbleのような単語が出てくるのだろうなと。

New Word Level ChekcerでJACET8000を指定して調べた結果
ほとんどがLevel1, Level2ですよね。

ちなみに,gorotaku先生も指摘なさっているように,これはインタビュアーも結構ゆっくりはっきり話してくれていますね。

おまけ

最後に,横浜F・マリノスからMLSのバンクーバー・ホワイトキャップスに移籍した高岳選手インタビューもたまたま見つけたのでどうぞ。

Interviewer: Can you tell us how you felt about your first MLS game?

Takaoka: Yeah, I think this is a 1st step for me, but the result is not good. I, I’m disappointed. So, uh, about next game is coming. So I have to analyze and um, keep, keep head up and focus on the next game.

Interviewer: Was it what you expected? Was it? Um, because it was two very different halves. Were you kind of expecting that or were you expecting something different?

Takaoka: Yeah, first half we played well. Um, second half, a little bit change. Um, we have to be be patient. It’s too easy, uh, to, to consider goal in the row. We have to be patient and yeah, sometimes, uh, happen, but to, to go in a row it’s, we can, we can, we can, we can change.

Interviewer: Hi, um, you were very calm and cool and collected on the ball today. How important is that part of your game? Just being cool and really helping your team build out of the back the way it did.

Takaoka: Yeah, I’m trying to stay calm and uh, I want to make the, uh, environment, everyone, um, play comfortable. I want to make, I want to make them comfortable. And that’s why I’m, I’m stay calm and um, sometimes, uh, make angry but uh, depends on the situation. I, I’m always control myself

Interviewer: With your 1st 90 minutes, uh, under your belt. Now in the MLS, how do you compare it to the J league, hmm,

Takaoka: Well, yeah, the LMS is more, uh, hmm, more go to attack the goal and more open open games and uh, the Japanese J-league is more compact and the possession is a lot of games, um, played that kind of style and I think that is uh, the difference,

Interviewer: Hi Yohei Vanney has talked about you as being one of probably the best goalkeepers in MLS, with your feet, with you saying just how open MLS is, is that a strength that you think you’re going to really be able to use going forward?

Takaoka: Yeah, I think my, my feet is my strength, but uh, I’m not sure about everything about MLS. And I don’t know about other goalkeeper and uh, but I can play well with my feet and I can make the difference uh, to from, from other goalkeeper.

三笘選手よりは流暢性が高くて,チャンクの引き出しも多いのかなという印象でした。ただ,一般的には,「通訳なしで英語のインタビューの受け答えをしていてすばらしい!」と思う人が多いのではないでしょうか。一方で,これが学校で行われるインタビュー・テストでのパフォーマンスだとしたら,英語教師の皆さんはどういう評価をされるでしょうか?もちろん,どんなルーブリックで評価するのかというところによるとは思いますが,これを「英語ができる方」と判断する人がどれくらいいるのかなと。ここにギャップがあるような気がしてしまうのです。

おわりに

こうやってサッカー選手のインタビューを見ていると,サッカー選手がどうやって語学をやっているのかも気になったりしますね。もしインストラクターのような人がついているのだとしたら,どういうカリキュラムでやっているのかなとか。例えばJクラブなんかが海外移籍を視野に入れている選手向けの語学教室とかやったりしていないのかなとか。サッカー選手がある言語を必要とする場面は結構ニーズ分析すると明確にタスクを抽出できそうですよね。インタビューの受け答えはおそらく頂上タスクの1つになるでしょう。あとは監督やコーチの言っていることを理解する,チームメイトとコミュニケーションを取るとかですかね。私はサッカー場面での英語使用には全然詳しくないので,どういう語彙や表現で選手同士,選手と監督・コーチがコミュニケーション取るのかはわかりませんが,そういうのさえわかればタスク・ベースのサッカー選手向けカリュキュラム構築とかできそう。そういうのコーディネートする仕事とかもしあったらめっちゃやりたい笑

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

大学教員だと仕事とプライベートな時間との分けかたが難しそうな印象がありますが…

はじめに

Querie.meで頂いた質問に回答を書いていたら少し長くなってしまったのでブログ記事にしてしまおう企画。質問は以下です。

大学教員だと仕事とプライベートな時間との分けかたが難しそうな印象がありますが、授業準備、研究、趣味、家族など、職場以外での時間の割り振りはどうされていますか?

回答

まず質問を読んで最初に思ったことは,何を聞かれているんだろう??です。仕事とプライベートの時間の使い分けを聞かれているのだと前半部分を読んで思ったのですが,後半部分は「授業準備、研究、趣味、家族など、職場以外での時間の割り振り」です。「授業準備,研究,趣味,家族など」の「など」は授業準備と研究と趣味と家族が等位接続されているという理解で間違ってないですよね?そして,それが「職場以外での時間」の例として挙げられているということですよね?授業準備も研究も職場以外でやるってこと???と。あるいは,「授業準備,研究,趣味,家族など職場以外の時間」,ということで読点の位置が不自然に入ってしまったのでしょうか?だとしても,趣味も職場以外の時間ですしね…。「授業準備や研究と,趣味や家族などの職場以外の時間」と書かれていたら,すんなり理解できるのですが。こういうところで引っかかるのって私だけなんでしょうか…。

さて,前置きが長くなってしまいましたが仕事とプライベートの時間の使い分け,ということだという前提での回答です。大学教員といっても勤め先の大学によって,また学部によっても全然働き方が違うと思いますので,あくまで私のケース,ということで以下お読みください。

プライベートの時間

私は就職して1年目は仕事とプライベートの境目とかなかったです。土日も仕事するのが普通で,プライベートよりもとにかく仕事仕事って感じでしたね。というか,授業準備とか,学内の様々な仕組みに慣れるのに精一杯でした。2019年度からは,ガンバ大阪のサポーターデビューをして,サッカー観戦という趣味を作ることによって,強制的に仕事をシャットアウトするようにしました。そうでもしないと常に仕事のことを考えてしまうし,それは健全ではないとわかっていたので。

その後,2020年度はコロナになって,在宅ワークの時間の時間が圧倒的に増えましたよね。おそらく多くの人にとってそうだったのだと思います。それ以降は,また仕事とプライベートの垣根がなくなったってしまった感じがします。1年前に引っ越してリビングに仕事スペースがある今の環境だと余計にそう思いますね。私は結構環境を変えることで自分のマインドを切り替える性格なので,2020年度の完全オンライン授業の時期などは,通勤時間がかかったとしても研究室に行ってそこからオンライン授業をしたり他の仕事をしたりしていました。

大学院生のときも,アメリカにいたときは結構自宅でやってたような気もしますが,それは勉強机を部屋に置いていたからです。名古屋に住んだ4年間のうちのほとんどはローテーブルしか置いていなかったので,家で作業した時間はほとんどなかったですね。大学受験のときも,わざわざ1時間くらいかけて河合塾の自習室に通っていたと思います。

研究の時間

あとは,研究とかプロダクティブな仕事をどういう時間でやるのか,これは研究者で悩んでいない人はいないのではと思います。結局,時間に余裕ががあるときにやる,とか,そういうのは絶対にうまくいかないっていうのは人の話や本を読んでも,自分の経験としても理解できています。時間に余裕があるときってほとんどないからですし,その時点ですでに後回しになってしまってるんですよね。

やっぱり,時間を決めてやるしかないですよね。幸い,平日のうちの1日は研究日として授業や会議のない日があるので,その日に研究をする,という人が多いのではと思います(大学教員で研究日の設定がないのだとしたら,そういう場所をいい職場だと思うことは絶対にないので研究日がある環境に移ったほうが絶対にいいと思います)。ただ,その日に溜まった家事をやったりとか,そういう風になってしまうこともありますよね…。

私は2023年度からは自分の研究日に非常勤に行くことになったので,研究日を活かす,というのとは別の方法が必要になります。実際に年度がスタートして,生活のリズムがつかめないと,どういう時間の使い方がいいのかわかりませんよねおそらく。手探りでやっていくしかないのかなと思っています。というか,5年間同じ職場に努めていても研究日が変わったり担当の科目が変わったり,時間割も変わったり,所属している委員会も変わったりと色々な変化が毎年あったので,正直に言って未だに固定された自分のやり方みたいなのは見つけられていないかもしれません。おそらくですが,そういった変化に影響されないような方法を見つけないといけないのだろうなと思い始めています(気づくのが遅い)。

そんな中でも,私が割と気に入っているというか,自分にとってあっているかなと思っているのは,授業の前の時間を使う,です。これも1限の授業が多くあると,かなり早起きしなければいけないので朝にそこまで強くはない私はなかなか難しかったのですが,例えば,2限から授業の日は1限の時間を研究に使う,というような感じです。私は基本的に授業の日は授業開始時刻の1時間前に職場に着くのを目安にしています。関西大学は1限が9時からなので,8時くらいにオフィスに着くイメージです。よって,2限の日に8時に研究室に着けば,2時間は集中して作業ができます。これが,例えば,1, 2限は授業で午後が丸々空いている,みたいな日だと,午前で結構疲れ切ってしまって午後に頭を使う仕事がなかなか捗らないんですよね。また,2, 4限とか1, 4, 5限のようにのように空いたコマがあるときも,その空いたコマに研究のことを考えるというのは私はあまりうまくできません。

来年度は,久しぶりに午前に授業がない曜日,つまり自分の授業がすべて午後にある曜日があるので,午前を研究に活用するようなスケジュールを組めるといいのかなと思っています。あとは,念願の自分の書斎(1.5畳)を手に入れることができるので,家にいても「仕事モード」に切り替えやすくもなるのかなと思っています。

「割り振り」という観点

最後にですが,時間をどう作るかではなく,「割り振り」つまり配分という観点で考えてみます。着任してから3年間は,授業準備にものすごく時間をかけていたと思います。最初の1, 2年はたとえ同じ授業であったとしてもまだまだ1年目でそこまで授業のスタイルが確立できていたわけではありませんでしたので,2年間終わってようやくこれである程度授業準備が楽になるかなと思っていました。そこにコロナがやってきて,今までやってきたこととはまったく違う授業をしなければならなくなりました。2021年度もまだまだコロナ前と同じように授業はできていませんでした。今年度になってようやくほとんどコロナ前変わらない授業ができているかなと感じ始めています。ただ,来年度からは非常勤含めて新しい授業(すべて語学以外の授業)が5つあるので,また授業準備に多くの時間が必要になる時期になるだろうなと思います。

あとは,質問者様のあげてくださったものの中には入っていませんが,委員会業務も地味に大変ですね。大学教員の仕事には所属組織の運営というものもありますから,外からは見えにくいですが色々仕事があります。また,私のこれまで経験してきた業務は仕事の波があることが多く,ある特定の時期に多くの仕事をこなす必要が出てくることが多かったので,その時期は本当に大変な思いをしました。そして,今年度からは所属組織のみならず学会運営の仕事(LET関西支部の事務局の仕事)も入ってきててんやわんやです。

体感ではここまでで40~50%くらいですかねぇ。あとは研究,趣味,家族が10~20%ずつくらいっていう感じかもしれないです。ただ,数ヶ月前に同棲をし始めて,二人の時間は増えたと思います。もちろん忙しさの波があるので難しいこともありますが,できるだけ二人で料理をして食事をする時間を作ることを意識しています。義務感というよりも,その時間が幸せなので,その時間を大事にしたいという気持ちです。あとは,今はJリーグがオフシーズンなので,サッカーに費やす時間が減っているというのもあるかもしれません。

研究の時間もっと増やしたいよなぁという気持ちはあります。ただし,私より遥かに多くの仕事をこなしていて,なおかつ研究もやっていて,という私より年上の先生方も見ています。そうすると,自分の頑張りは足りないなと思うこともあります。1年前くらいは,そのことに対して,つまり,周りと比べて自分に対してネガティブな思考に陥ってしまっていました。カウンセリングに通い続けて,そういう思考からは少し解放されたんじゃないかなと思います。自分は自分のペースで成長はしていっているはずだし,目の前に立ち現れる壁を少しずつ乗り越えていくことだけに集中して,それを繰り返していけばいい,と今は思っています。

具体的な目標とか,数字とか,そういうのはあえて設定せずに,とにかくやり続けること,やめないこと,そういうのを色んなところで設定しています。運動もそうですね。何キロ痩せるとか,体脂肪率をどれくらい落とすとか,週何回運動するとか,どれくらいの強度の運動ができるようになるとか,そういうことを考えるのはやめました。運動をやめない,運動を続けること,それだけです。そうやってしている方が,結局は自分は長く続けることができるなと思うので,研究についてもそうなんじゃないかなとなんとなく思っているという感じですね。

おわりに

なんだが質問に答えるうちに内省がどんどん活性化されて色々と書いてしまいました。私に質問されたい方はお気軽にどうぞ。質問への回答で,さらに気になることがでてきたら「関連する質問を送る」ということもできます。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

修士課程でやっておけばよかったと後悔していることはありますか?

はじめに

Querie.meで頂いた質問に回答を書いていたら少し長くなってしまったのでブログ記事にしてしまおう企画。いただいた質問はずばりタイトルです。

回答

たくさんありすぎます。学部のときにやっておけばと思ったことも,博士後期のときにやっておけばよかったと思ったことも,どれもたくさんあります。

たぶん,そのときにどれだけ一生懸命何かに取り組んでも,あとあと,「あれやっておけば」っていうことって絶対出てくると思います。逆に,「あれやっておいてよかった」と思うことも同じかそれ以上にあるんだと思います。
大事なことは,何歳になっても自分が知らないことを知ろうと努力することで,今,自分の与えられた環境で,がむしゃらに学び続けることなんじゃないかなと思います。それができる人のことを私は尊敬していますし,私の理想もそういう人間です。

修士課程に在籍している方が質問者の方だったとしたら,「今わたしは何をやっておくべきでしょうか?」という質問なのかもしれませんね。あまり答えになっていないかもしれませんが,とにかくできることは何でもやっておいたほうがいい,というのが私の答えかなと思います。これさえやっておけばいいというのもないでしょうし,これはやっておかなくてもいいというのもないと思います。やっておいたほうがいいこと,なんていうのは,わかりません。何がどう未来に役に立つかなんてわからないので。

ちょっと昔話

このブログでも何回か書いているような気もしますが,少し昔ばなしを。

学部時代

学部時代は,正直あまり真面目に勉学に取り組んでいた方ではなかったです。自分の興味あることについては一生懸命に取り組んだ思い出もありますが,日本の大学の修士課程に進学する人たちが入試のために勉強するようなことは私は恥ずかしながらほとんどせずに修士課程に入りました。そのくらいの時期にTwitterを始めて,たくさんの人たちと交流するようになり,私は恐ろしいほどに知らないことがたくさんあると感じました。修士課程のときはとにかく本も論文もたくさん読もうと努力していましたが,じゃあどれだけ読んだら後に後悔しなかったのかと思うと,たぶんどれだけ読んでいても後悔しないことはなかったんじゃないかなと思います。

いま振り返って,学部の1年に”A Student’s Introduction to English Grammar“と格闘していたこと,3・4年次のゼミで”Thinking Syntactically“を読んだこと,学部の先輩にそそのかされて,4年次に別の学部の統語論の授業を受けに行っていたりしていたことなどは,やっていてよかったなぁと思うことですが,それよりもたくさん,もっと学部のときに勉強しておけばよかったと思うことはあります。一方で,学部のときにはなの舞でバイトしまくったことは確実に私の調理スキルを向上させましたし,そこで何度も二日酔いになったことでお酒との付き合い方も学びました。また,たくさん遊んだからこそ,学部卒業後はもっと勉強しようと思えるようになりました。その意味で,どんな経験も今の自分には必要だったのだと思います。

修士課程時代

特に,私は修士課程は実践よりのところでしたから,研究というところについては授業の課題だけでは不十分で,自分でたくさん読まなければいけないことも多かったです(当たり前ですけどね)。もちろん,demo lessonやteaching practicumなど,研究ベースの修士課程では経験できなかった多くのことが自分の英語教師としてのベースになっていることは間違いありません。また,私が修士課程への進学を決めたのも研究者を目指していたからではなく学校の英語教員を目指していたからだったわけで,その選択も後悔してはいません。もっというと,そういうバックグランドが逆に大学教員としての自分の強みにもなっている部分はあるかと思っています。

ちなみに,私の修士論文はタスク系の研究だったのですが,そのためにTBLT関係の論文や本をそれなりに読みました。ただ,それは自分がそこに興味があったからそうしていただけで,それが松村さんとの勉強会につながり,本の分担執筆をすることになり,教材集や教科書を作ることにつながるなんて思ってもいませんでした。

博士後期課程時代

そこから,学校の英語教員になることを諦めて博士後期課程に進学しました。その時は,D1でしたが1年弱研究から離れていたこともあって,修士課程の学生と一緒に授業を取りながら,自分の研究のことも考えながら,非常勤もやりながら,というような感じでした。自分がすごく夢中になってやったことといえば,Rくらいかなと思います。そのときは,ただただRで何かやるのがかっこよくて,Rを使って分析が色々できるようになりたくてやっていただけで,Rがこの先に必要になるからとかそんなこと思っていたわけではありませんでした。Nagoya.RというイベントでRのネタを発表するためにRのことを勉強したり,tidyrやdplyrなんかも出始め当初くらいから触っていました。そうしたら,Rのできる人というような見方をされるようになっていました。テクニカル・レポートなんかを書くようになり,先生から分析を頼まれるようになり,また勉強をして,そうこうしていたら学部で「データサイエンス」と名のつく授業を来年度から担当することになりました。名古屋大学という環境がそういうところだったのでしょうし,周りにいた人たちの影響はもちろんあります。

ただし,それは「Rやっていてよかったな」と思うだけで,もしタイムマシンで過去に戻れるとしても別に自分にあえて「Rやっといたほうがいいぞ」とか「LMEは絶対勉強しろよ」とか言わないと思います。他にも,自分が今知らなくて,もっと時間がある院生時代に勉強しておいたほうがよかったことなんて山程ありますが,そういうことも,その当時,それを勉強しなかったのではなくきっと他のことを勉強していたから知らなかったということだと思うようにしています。そして,そのときに勉強していたことは今の自分に絶対につながっているはずで,もし仮にそれをしていなかったらそれはそれで今のようなキャリアになっていたとも限りません。

だからこそ,「やっておけばよかった」と思ったときに,”It’s never too late to learn”という言葉を思い出して本を買い,そして積ん読になるんですね。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

2022年の振り返り

毎年恒例の振り返り記事です。これまでの振り返り記事も興味がお有りの方はどうぞ。

過去の振り返り記事

ブログのこと

この記事を書いている2022年12月30日時点でのこのブログのpage viewは161,591です。年間のアクセス数は2021年よりもさらに減少して,執筆時点で2022年は17,628となりました。18,000を切ったのは2016年以来でした。今年は投稿数が近年のうちでも少なくここ5年間だと以下のようになっています。

  • 2018: 23本
  • 2019: 25本
  • 2020: 26本
  • 2021: 29本
  • 2022: 22本

昨年は結構一本の記事あたりの分量もかなり多かったのですが,それも少し減っているような感じです。

今年の記事で閲覧数が多かったのは以下のような記事でした。

1番目の話は,いわゆる学内紀要的なものに論文を書く意味があるのかっていう話です。自分の所属先に関わる話ですが,今後もっと色々考えないといけないんじゃないのかなとは思っています。ChatGPTの記事は割と最近ですが,Twitterでも結構反響が大きかったです。英語教師の方々がチラホラとどんなことができるのだろうと色々試しているのが最近よくTwitterにも流れてきています。二番目の記事も英語授業に関係する話ですね。4つ目のタイトルが長いものは,Querie.meという質問を募集するサービスでいただいた質問に対して,答えが長くなったのでブログ記事にしたというものです。Querie.meというタグでいくつか記事を書いていますのでもしご興味がおありでしたらお読みいただければ。めんどくさい回答の仕方とかもしていますが,基本的には質問はいただけたら嬉しいので喜んで回答しています。

仕事のこと

2022年度が5年目で,大学教員としていろいろなことが見えるようになってきたなと感じるようになりました。そんな中で,とても大きな変化として学会の事務局長というお仕事を任されるようになったことがあります。今までは運営委員の末席にいたのが,急にそれを仕切る役目を任されることになり,いろんな先生に助けられながらなんとかもうすぐ1年目を終えようとしています。そういう仕事をしている中でも,こういうところは変えたほうがいいとか,このやり方はあまり効率的じゃないとか,そうやって気づいたことは逐一メモするようにしていて,事務局業務に関するメモやメールのテンプレなんかはEvernoteにどんどん蓄積されていっています。

来年度は,また学内で今とは違う役割になることや,授業の担当で大学院の科目をもつようになることなど,今から不安なくらいたくさんのことが待ち受けているので,チャレンジングな2023年になるだろうなと思います。自分の中でも,そこが一つの分岐点というか,一皮むけるために必要な,色々耐える年になるだろうと思っているので,そういうのを楽しみつつ,それらを乗り越えた先に自分が成長したと思えるようになっていたいと思います。

2022年は,それまでなかなか出版までたどり着かせることができていなかったものがいくつか出版になったので少しホッとしています。とはいえ,全然足りないので,もっとやらないといけません。仕事に慣れたら…なんて思っていたらどんどんと新しい仕事が回ってくるので,そういうスタンスじゃこの先研究者として生きていくのは無理なんだということを改めて突きつけられている思いです。

運動習慣

2022年も自転車と筋トレの2本柱をある程度継続してやっていくことができました。ただ,夏にぎっくり腰をやらかしてしまってしばらくお休みしたのと,先日も腰の調子がかなり悪くて運動ができなくなってしまったことなどがあり,あまり強度の高い運動を年の後半にはできていません。20-30分くらいの軽いランニングであれば,腰のサポーターを巻かずに走れるくらいにはなってきていたところだったので,少しショックではあります。

今も継続して整骨院には通っているのですが,そういう体のメンテナンスもしつつ,無理のないように今後も筋トレは続けていきたいなと思います。

プライベートのこと

今年は,実家がなくなったというのが結構自分の中でも大きなことでした。なくなったといっても家を取り壊したとかそういうことではなく,実家を貸家にするために荷物をすべて引き払ったということなのですが。祖母の面倒を見るために,父が祖母と同居することになり,そのために誰も住む人がいなくなった一軒家を貸しているという状況です。私の人生の大部分を過ごしていた場所で,たくさんの思い出の品がありましたが,それもすべてはとっておけないのでほとんど処分することになりました。それはある意味で,自分にとって東京という場所との決別のような感覚もありました。私は東京出身ですが,もはや東京は「帰る」場所ではなくなったという感じです。今後東京に行くことがあったとしても,東京で「ゆっくりする」みたいなことはきっとないんだろうなと思います。

私は別に実家大好きマンとか地元大好きマンというわけでもないので,これからは大阪という場所が自分の街という感覚になっていくのでしょう。また春には同じ市内の中で引っ越しをして,そこが私の家になります。色々大変なことも多いのですが,そういう決断をしたという意味では,2022年は人生の大きな節目になるのかもしれません。春が待ち遠しいですね。

おわりに

2021年の終わりは,とにかく本当にこれまでの人生の中でもっとも落ち込んで,すべてに絶望していましたが,あれから1年経って,その時から比べると2022年の大半は本当に幸せな毎日を送っていると思います。公私ともに,たくさんの方にお世話になりました。直接お会いできた方も,できなかった方も,本当にありがとうございました。このブログを読んでいただいている方も,そうでいない方にも,私に関わるすべての方に感謝申し上げます。

今年も1年お世話になりました。来年もよろしくお願いします。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

大学教員が求める小学校外国語科の授業の在り方は?

Querie.meで頂いた質問に回答を書いていたら少し長くなってしまったのでブログ記事にしてしまおう企画を久しぶりに。いただいた質問はずばりタイトルのとおりです。

回答

さて,まず質問いただいてありがとうございます。あまり頻繁に質問をいただけるわけではありませんので,こうした質問をいただけることを嬉しく思っています。また,このことを私に聞いてみようと思われたことに対しても感謝申し上げると同時に,以下の回答が質問者様が今後,同様のサービス(Querie.meや質問箱等)で私や別の方に質問をされることを妨げるようなことがないことを祈っています(ここまで読んで,一部の人には研究者がよく受け取るメールのテンプレっぽいお断りの文章だなと感じられたかもしれません。私も書きながら,あれこれリジェクト通知かなとか思っています)。

前置きが長くなりました。

まず,私は大学教員の代表としてなにかを論じる立場にありませんので,いただいた質問に対する答えは「わかりません」となります。あるいは,外国語教育に関わる大学教員に限って,その総意としてなにかの意見を求められているのだとしても,その「総意」というのはわかりません。したがって,「お答えできません」と表現する方が良いかもしれません。

もし仮に,「(いち)大学教員(としてのあなた)が求める小学校外国語科の授業の在り方は?」という質問の意図だったとしましょう。つまり,私(田村)個人の意見を知りたいと思っているという質問だということですね。しかし,仮にそういう質問の意図であったとしても,答えはほとんど同じで「わかりません」になるかと思います。または,「私(田村個人)は,何かを求めたりすることはありません」ということになるでしょうか。

外国語学部に所属していて,一応外国語教育にも片足は突っ込んでいる大学教員の立場であったとしても,小学校外国語科に,あるいは学校教育に,いや「大学教員が求める○○の在り方は?」の「○○」の部分に何が入っていても,それに対して何かを求めるようなことはないというように思っています。もしも,「(いち)大学教員(としてのあなた)が求める教授会の在り方は?」くらいだったら,まあ一応自分も大学教員として学部の教授会の構成員ではありますので,学部の教授会がどういうものであったらよいかということに対しては自分の意見がないわけではないです。ただ,それでも自分が何かを求めるような立場だろうかということについては考えてしまいますね。よく言えば,抑制的,悪く言えば消極的と言えるでしょうか。

そういうことを考えた上でもとの質問に戻って,「大学教員が求める小学校外国語科の授業の在り方は?」という質問に対して私がなぜ違和感を覚えているのかということを考えてみます。つまりは,この質問に何の疑問も挟まずに答えるというのは,小学校外国語科の授業の在り方に対して,自分自身が何かを言うこと,つまりそこに何らかの影響を与えようとする気があって,なおかつそのことに対して責任を負うことができる,そういうことだと思うわけです。「求める」というのはそういうことですよね。単なる意見ではなく,その意見を述べる対象に対して影響力を与えようとする意図がなければ「求め」ないわけですから。

さらに,「在り方」という言葉にも引っかかっているのだと思います。「在り方」というのは「あるべき姿」ということです。「小学校外国語科の授業のあるべき姿」を問われているわけですね。この「あるべき」というのも,私にとっては畏れ多い言葉です。「大学のあるべき姿」とかを問われたのであれば,大学教員として,大学の運営の末端を担う自分にもそれを考える責務や,そのことを発信する勇気は必要でしょう。しかし,「小学校外国語科の授業のあるべき姿」は私にとっては自分がコミットしている領域であると捉えていないのだと思います。もし仮に,「日本の政治のあるべき姿」を聞かれたとすれば,それに答えないのはどうなんだと自分でも思いますが(とか言って,私は政治の専門家ではないので…なんて答えたりしそうですよね)。

さらに,一応ウェブ上で,私は素性を明かしてブログを書いたりTwitterに投稿したりしています。そして,私はもうブログを始めた当初の無名のどこの馬の骨ともわからぬ若造でもなくなってしまいました。そうなると,そう簡単に,あるいは軽率に,私が「求める」「小学校外国語科の授業の在り方」について語ることはできなくなってしまいました。私がもし仮に小学校外国語科の授業について専門的に研究している研究者であれば,まだ何かを言うことができたかもしれませんが。

深く考えすぎかもしれません。もしかすると質問者様の意図は,「(いち)大学教員(としてのあなた)が求める(考える)小学校外国語科の(理想の)授業の在り方は?」という質問であったのかもしれません。

つまり,「求める」というのは「考える」くらいの意味であって,「あなたは小学校外国語科の授業の在り方についてどう思いますか?」ということを聞きたかっただけなのだと。その可能性もありますよね。しかし,質問の意図を解釈しようとするだけでこれだけのことを私は考えてしまうわけです。

もしも質問者様がこの回答ブログ記事を読んで,「めんどくさ!もう質問なんかしねーわ!」

と思わなかったのであれば,またこの質問の回答のところから関連する質問をしていただければと思います。

以上です。

私に質問されたい方は質問お待ちしています。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。