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Yu Tamura について

第二言語習得の研究者。博士(学術)。英語教育のことや統計・データ分析に関わること、趣味のサッカーのことなどについて書いています。

この数年で博士号をとったり、大学教員になった先生方に望むものはなんですか?

はじめに

久しぶりにブログ記事で回答します。

質問

ヤットさんに憧れ、宇佐美選手と同年代です。 次節、勝ちましょう!!!! (中村俊輔選手の引退試合も熱いです!!!) ここ数年に権力がある世代は、英語教育を研究として成立させるために尽力していただいた世代(学会の偉い先生方など)。次の世代は、ネットを駆使して英語教育を一般化した世代だと思っています(発信力が強い先生方)。そこで、この数年で博士号をとったり、大学教員になった先生方に望むものはなんですか?

回答

ヤットさんは代表でずっと見ていて好きな選手でした。ガンバを好きになったのもヤットさんを生で見れるというのも大きな理由としてありましたね。実際に,初めて買ったユニはヤットさんのでしたし。宇佐美選手と同年代ということはプラチナ世代ですか。私は倉田選手・藤春選手と同い年です。

私は味スタの近くが地元なので,中学生のとき,鹿島,浦和,横浜FM,ガンバなど,強豪チームが来るときにはによく500円でアウェイ・ゴール裏席に行っていました(当時はFC東京もヴェルディも強くなかった)。横浜FM戦に行って,眼の前で中村俊輔選手の直接FKを見たこと,今でも覚えています(ゴールは決まらなかったんですが)。ちなみに,一番怖いなと思ったのはガンバ大阪のゴール裏でしたね笑 今はそこに自分もいつも座っている(立っている)わけですが。

さて,急に英語教育の話になったのでサッカー界隈の人ではなく英語教育界隈の方ですかね。私個人が他人になにかを「望む」ようなことはないですね。以前,querie.meで「大学教員が求める小学校外国語科の授業の在り方は?」と聞かれたときに,「求めたりしない」とブログに書きました。

自分自身に求めて行かないといけないと思っているのはこれまでの英語教育研究を顧みて反省することでしょうか。私自身は英語教育研究のど真ん中にいるとは思っていないですが。英語教育研究とはやや異なりますが,この前出た本は一つ,そういう仕事かなと思ったりしています。

第二言語研究の思考法:認知システムの研究には何が必要か

質問したい方はどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

英語嫌いと体育嫌い

はじめに

体育がきらい (ちくまプリマー新書 437)

英語と体育ってなんか似ている部分もあるのではないかと思いながら手にとって読んだ本。そこから色々考えたことを書きます。

英語と体育って似ている

英語指導って,結構体育会系のノリで,とにかく練習あるのみとか,根性とか,忍耐とか,そういうのも実際ある気がしています。そういう側面が言語学習に全くないと否定するつもりはないのですが,そういうのが前景化したときにそれに対して拒否感を覚える人がいることを忘れたくないなと思います。

体を動かすことやスポーツで全員がプロアスリートを目指すわけではないのと同じで,英語だって,みんながそれぞれそれなりのレベルで,でも英語を使うことや英語を学習することにポジティブに向き合って,自分の成長を感じられる,そうであれば良いはずだと思います。

運動は健康との繋がりがあるので,そういう,自分のペースで,自分にあったレベルで,とにかく続けることがいいと言いやすいというのはあるかもしれません。メンタル的にも運動でリフレッシュされる部分はありますしね(このあたりは非専門家なので感覚で言ってますが)。ただ,言語学習ってなかなかそういうのを感じにくい部分はあるかもしれません。運動に比べると。

運動の分野でも,どれくらいハードなトレーニングをやっているかとか何キロ挙げたとか何キロ走ったとか,そういうので競争する人たちはいるでしょう。でも,そういうのにコミットしない人もいるはずです。言語学習は何かみんなが競い合っているような感じがしてしまうんですよね。そこに,体育会系っぽい要素を感じずにはいられません。先日anf先生とお話したときに,「英語マッチョ」という表現がまさに英語と体育会系というものの親和性の高さを表しているよねなんていう話題も出ました。

本を読んで印象的だったこと

私が本を読んで印象的だったのは以下のことです。

  • 好きにならなくていい(体育好きが体育教師になるし体育を好きにさせようとする)
  • 「まずやってごらん」という先生の一言が体育が苦手な人にとってきつい
  • 体育の授業を少中高大と経験しても,大人はお金を払ってジムに通わないと自分の体をコントロールできない(体育の敗北)

どれも,英語との類似点だと思ったからこそ印象に残っています。1つ目は,英語が好きな人が英語教師になるし,英語教師は英語を好きにさせようとする,英語(言語)ってこんなに面白いんだよとアピールしてくる,というように考えると,結構当てはまるよなぁと。他の教科がどうなのかわからないですが。もちろん,そのポジティブさが英語学習に対してポジティブな態度の学習者を増やしている側面は否定できないでしょう。それ自体が悪ではありません。一方で,著者の結論は,好きか嫌いかの二択にしなくていいし,その間にグレーゾーンがあるというものです。つまり,「嫌い」にはなってほしくないけれども,「好きにならなくてもいい」ってことですね。

2つ目は,私も結構こういうスタンスで授業をやってしまっていると思いました。体育というのは,自分の体がみんなの注目を浴びることになるので,とても辛いという話です。とくに,跳び箱やマット運動など,一人ずつやるような種目だとどうしても自分がやっているところを誰かが見ていることになりますよね。そこで,苦手な子に「まずやってごらん」と言うのは体育が苦手な人にとってはとても苦痛だということです。英語でいうと,みんなの前で音読したり,みんなの前で英語で発表したり,意見を述べたり,というのが自分のことば(体の一部といってもいいでしょう)がみんなの注目を浴びるという点で類似性があると思いました。基本はペアワークやグループワークでも,その成果をクラス全体で共有したいですよね。せっかくだからそこも英語でやりたいと思いますが,クラス全員の前で英語を口にする機会,やはり結構ハードルは高いですよね。

よくある,「英語っぽい発音が笑われる」という話や,その逆で「発音に自信がないから恥ずかしい」というのもつながるものがあるかもしれません。まず,どんな言語だろうが,母語話者だろうが第二言語話者だろうが人が喋っているのを笑うなと言う話なんですけども。体育でもそうなんですが,仮に周りがどんなにサポーティブな雰囲気でいてくれたとしても,やっぱり自分自身が自分の体やその動きを「無様」なものだと思ってしまったらみんなに見られたくないと思うのは当然ですよね。

3つ目は,語学教育ビジネスと相似系だなとすぐ思い浮かぶ人も多いのではないでしょうか。小中高(大)と英語を勉強しても,お金を払って英会話学校に通ったりオンライン英会話プログラムに通わないと言語学習ができない,ということですよね。本屋さんに行けば語学関連書籍がたくさんあったり,テスト対策本もたくさんあったりしますよね。書籍があれだけあるのも,売れるから,ですよね。「痩せる」とか「ムキムキになる」とかを煽るのと,「ペラペラ」とか「ネイティブのように」を煽るのは,似ているよなとやはり思ってしまいます。ただし,書籍は基本的に自学なので,ジムに通うこととはまた違うのかなとは思います。

そうは言っても,自律的に言語学習をする術を身に着けさせることなく社会に放り出しているのかもしれない,とは言えると思います。大人がジムに通うことを体育の敗北と呼ぶならば,英語学習についての現状は「英語の敗北」と呼べるのかもしれません。

おわりに

体育も英語も,その教科に対してポジティブなイメージを持っている人が一定数いることは事実でしょう。だからこそ,そのイメージを誰しもが持っていると思い込んでしまいがちです。そこで立ち止まって,英語嫌いや体育嫌いを考えてみることが大事なのだと思います。これって別に一般的に多くのことに当てはまることで,陳腐な言い方をすれば「客観視をする」とも言えるかもしれません。「体育会系っぽい」授業を自分がしていないか,振り返って考えるいい機会になりました。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

2023年度LET関西支部秋季大会を終えて

はじめに

11月4日(土)に開催された2023年度外国語教育メディア学会(LET)関西支部秋季大会のシンポジウムに登壇したので,その雑感みたいなものを忘れないうちに(その日の夜はほぼ記憶を失いましたが)メモしておきたいと思います。私の資料はウェブに公開しているので,下記から御覧ください。

この資料の中のメインの話は以下の2つの書籍を読めばほとんど書いてあることなので,詳しい話はそちらをお読みください。

特に,私の話は結構端折っているので,本を読んでいただかないとつながりとかも分かりにくくなっていしまっていると今になって反省しています。

第二言語研究の思考法: 認知システムの研究には何が必要か

英語教育のエビデンス: これからの英語教育研究のために

ちなみに,下の本についてるAmazonのレビューは全く参考にならないので,レビューでこき下ろされているからといって買うのを躊躇しないでください(このブログ記事を読む人が私のこの記事の内容とAmazonのレビューで後者を参考にするとは思いたくないですけど)。

全体をざっくり

司会の浦野先生をはじめ,南先生,私と,3人とも言いたいことが結構あったなと思いましたし,それぞれに違うポイントを強調されていたのが(当然ですが)よかったなと思いました。浦野先生は,司会だから抑えめにされていたと思いますが,学会誌の投稿基準の話や追試,外的妥当性・内的妥当性の話など,外国語教育研究の大きなところの中で重要なところをピンポイントに指摘されていた印象です。南先生はとにかく実践研究を広めたい,もっと多くの人に実践研究に取り組んでもらうことで実践も研究も状況が良くなるという信念があるように感じました。

機材のトラブル等があって最後のディスカッションの時間が短くなってしまったことや,オンラインで参加された方に議論を届けられなかったことが非常に残念でした。あと何より私が残念だなと思ったのは,登壇者の南先生がマイクを持って質問者のところに行っていたことです。あれ,南先生がいい人だから自然と身体が動いてそうなりましたし,私も最初マイクを持って走り出そうとして南先生とぶつかりそうになったのですが,あの場にいた実行委員(運営委員を含めても良い)の中の誰もがその役割(シンポジウムを回す役割)を積極的に担おうとしなかったことは,端的に言って登壇者に失礼だったと思います。参加者としてあの場にいたから意識が向かなかったのかもしれませんが,さすがにシンポジウムの登壇者がやることではなかったと思います。そのこともあってか,南先生が議論になかなか加われていませんでした。私も登壇者だったのでなかなか南先生の代わりに誰かとその場で声をあげるほどの頭の余裕がその時はなくて何もできなかったのですが,後から冷静に振り返るととても心苦しかったです(途中から誰かが変わっていたかもしれませんが,記憶がそこはありません)。

フロアとのディスカッションで出た質問

私が覚えている限りの質問について,書いてまとめます。質問された方で私のまとめ方が異なるようでしたらご指摘ください。

実践研究と理論研究が相似系であること

私は探求の論理学の例で,アブダクションによる仮説形成と演繹的推論を用いた予測,そして実験から一般化するというプロセスを提示しましたが,そのプロセス自体は実践研究でも同じことなのではないかということでした(その前にも色々な話があったと思いますが)。それはそういうところもあるかなと思いましたが,アブダクションによる仮説形成時に理論的構成概念を扱うことを重視するという点は理論と実践の違いと言えるかもしれないと思いました。実践の時には構成概念の実在はそこまで重要視されないかなと思うので。

オルタナティブ・アプローチについて(※注)

SLAの話の中にいわゆる認知的「ではない」アプローチをとる研究が一切出てこなかったのですが,というコメントが有りました。私が認知的アプローチを取る研究者を代表して今回登壇したということを浦野先生が補足してくださいました。私がまず答えたのは,社会文化理論なり複雑系理論なり,Atkinson (2011)に収録されているような「オルタナティブ・アプローチ」で言われているように,認知的アプローチでは第二言語習得はわからないのだ,大事なものを捨象しているのだ,というようなものがもし仮に真であったとしても,そのアプローチを取る人たちが,認知的メカニズムを一切仮定しない第二言語習得理論を作ることはできないし,学習者の外側の要因がどれだけ重要であったとしても何からの認知的メカニズムを考えずに第二言語習得を研究することはできないというものです。あらゆる要因をすべて考慮して,全部を包括的に説明することを目指そうとというのは個人的には失敗だと思っています。let all the flowers bloomでは無理だったということを,少なくともメカニズムの探求をするのであればそれを認めた上で(まあ最初からそう思っていた人が多いと思いますが),説明する対象を限定した上でメカニズムの探求をする必要があるだろうというのが「思考法本」の中で書いてあることでもあります。

事例研究の積み重ねの重要性

医学の分野では,厳密なRCT実験ではない事例研究も全く意味がないわけではなく,それはそれで価値のあるものだと認識されているので,事例研究も…というような意見がありました。事例研究の話はこれまた寺沢さんのブログで言及されている話があるので(EBEE本の寺沢さんの5章の最後にも事例研究の話があったと思います),そちらをお読みいただくと良いと思います。

寺沢さんの話は,何を事例として取り上げるのかという選択が非常に重要で,その事例が何らかの形で理論構築なり他者なりに貢献できるような事例でなくては事例研究としての価値が低いということだと理解しています。私はそれ以外にもう一つ医療系と教育系で違う点があると思っています(これは懇親会で亘理先生とも話したことですが)。それは,介入の手順や測定の厳密性や標準化度合いです(これもEBEE本の中でPKテストが扱われる8章で述べられている話でもあります)。医療では,おそらく何らかの介入を行う際に,その手順が厳密に規定されていて,その効果を測る手段も標準化されていると思います。よって,そこのブレがない分だけ事例の共有が容易でしょう。しかしながら,言語教育において何かしらの介入指導の手順がどのくらい厳密に規定されていて,それがどれくらい標準的なものとして共有されているかというと,そこが難しいと思います。「ディクテーション」とか「英作文」とかそういうざっくりしたものは当然のこと,「間違い探しタスク」や「他己紹介」のように多くの人が内容を容易に思い浮かべることができる活動であったとしても,それをどう実施するかには多くの選択肢やバリエーションが存在しています。そして,そのバリエーションが有ることは何ら悪いことではないというか,文脈に即した活動にするためにそのバリエーションが有効に機能します。効果の測定についても,パフォーマンスで評価するにしても正確さ,流暢さ,複雑さを使って言語使用を仮に測定できたとしても,無数の指標からどれを選択するのかについて,合意形成はなされていませんし,あるタスクに固有の標準化されたルーブリックのようなものもないでしょう。これでは,仮に事例研究が多く行われていったとしてもそれを解釈するのは難しいように思います。

ただし,何をやったらどうなったのか,についての主観的な記述を蓄積していくことには意味があると思います。ある実践を行ったとき,その手順についての詳細な記述とそれを実施した教師がどういう主観的な見方をしたのか(うまくいったのか,うまくいかなかったのか),なぜそういう見方をしたのか,というようなものが蓄積されていけば,それはあとから参照する価値の高い資料になると思います。上の寺沢さんのブログでは量的な事例研究もあるので質的なものだけが事例研究だけではないと書いてあって,そこはとても大事な指摘です。量的な事例研究もありますが,教育系で理論に貢献しうる事例研究って結構難しそうだなと個人的には思っています。

おわりに

今回のシンポジウムに登壇することで,自分の考え方もより整理されたなと思います。ただ,発表自体はまだまだで,もっと伝え方を工夫しないとなかなか理解されないということも痛感しました。これは私の力不足です。意見論文をある程度の国際誌に載せるのが簡単じゃないのはよくわかっているのですが,そういうことしないと結局何も変わらないので,たくさんの人と議論を重ねながら,学界がいい方向に進んでいくといいなと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

注(2023年11月8日追記)

オルタナティブ・アプローチの話のところで,質問いただいた方からTwitterで補足・訂正をいただいたので追記します(直接メールももらいました)。

まず,私が質問を理解できていなかったことが原因で噛み合ったやりとりにならなかったこと,お詫び申し上げます。多分聞いてるときにバイアスがめちゃくちゃかかってしまっていたのだと思います。申し訳ございません。

さて,英語教育研究の中にオルタナティブ・アプローチがどう位置づけられるのかという話ですが,オルタナティブ・アプローチが今後何を目指していくのかによるのかなと思いました。認知的メカニズム以外の部分の言語習得のメカニズム的説明を目的としてやっていくのであれば,それはそれで意味があると思うので,やっていったらいいのではと思います。ただし,メカニズム的説明をやるのであれば,私が扱った批判というのはいわゆるオルタナティブ・アプローチの研究にも当てはまることだと思っています。

英語教育研究の中にどう位置づけられるのか,という話だと,「socialな側面を研究するスタディ」がどれだけ英語教育研究の「中で」やられているのかっていうと,ほとんどやられていないのではと個人的には思っています。英語教育学会に入っている人が,そういうところに興味があるのかっていうのもどうなんだろうなと個人的には思っています。だから意味がないということではなくて,だからこそ位置づけるって難しいなと言う話です。合意形成を得るのが難しそうなので。浦野先生が下記のツイート内で補足してくださっているように,”broad SLA research”と考えるとそこにはsocial SLAも入ってくるでしょうね。じゃあその”broad SLA research”と英語教育研究(外国語教育研究)がピッタリ重なるのかっていうとなんかそういう感じはしないな〜と個人的には思います。というのが私の個人的な理解ですね。

また,オルタナティブ・アプローチがメカニズム的説明を求めるのであれば,私の資料でいうと11枚目の浦野先生の作ったスペクトラムの中に英語教育研究を位置づけたものの中には入らないと思います。オルタナティブ・アプローチであったとしても,メカニズム的説明を求めるのであればそれは政策科学ではないからです。もしもオルタナティブ・アプローチがそうではなく意思決定の科学を目指すのであれば,あのスペクトラムの中の真ん中より右側に位置づけられるのかもしれません。

関西大学の院生向けキャリア関係イベントでトークしました

はじめに

関西大学キャリアセンターのイベント(主催は学内のプロジェクト)に声をかけていただき,関大の院生の方々に向けてトークをしました。

「多様な博士のキャリア」と銘打ったイベントで大学教員が呼ばれている理由はよくわかっていませんでしたが,事前の打ち合わせで,第1弾では企業に勤められている方がゲストだったということを聞いて納得しました。主に博士課程の院生さん向けのイベントで,自分の所属先の研究科の院生さんも何名か参加されていました。私の話は博士課程のうちにこういうことをやっておいたらどうですかという内容です。一緒に登壇されたおふたりの先生のお話もとても面白くて,他分野の方々の考え方やキャリアのことを聞けてとても新鮮でした。

将来を見据えて注力しておくべきこと

私のトークの話をすると,この部分が半分くらいの内容を占めています。正直,生存バイアスなので,話半分くらいで聞いてもらうのがいいかなと思って話しました。自分はこうしたほうがいいと思っているし,それが今の自分に繋がっているとは思っていますが。

得意なことの掛け算を意識

これは結構意見が分かれるかもしれません。得意なことでとがりまくれという意見もあるかもしれません。私は凡人なので,そういう生き方は無理でした。何か一本でここにいるというよりは,英語授業の実践(タスク),第二言語習得,心理言語学,統計,R,みたいな色々なことの掛け合わせで自分の強みになっているかなと思います。それぞれどれをとっても自分より知識・技術に優れた人はいるでしょうけれど,それを複数持っている人っていうと,あまりいないのかなという。アカデミアに就職するとなったら,狭い専門性しかなければ担当できる授業も限られてしまいますし,出せる公募の数も少ないでしょう。

博論にまっすぐ進むな

この話は実は先日,関学のT先生と話したことでもあります。博論に直接関係ないことは「必要ないこと」として切り捨ててしまう人がいるけど,それってどうなの,みたいな話だったと記憶しています。例として出てきたのはたしか,データ分析のために統計が必要だけど,統計を学ぶことそれ自体は直接関係ないから自分の手持ちのデータを分析するツールの使い方とその解釈だけ分かればいい,というようなことでした(たぶん)。

フルタイムの職を持ちながら博士課程をやるとなると,なりふり構わずやるしかないみたいな感じなのかもしれませんが,私としては博士課程の時って直接的に関係ないことでも全力でやるからこそその後につながるということばかりな気がしています。勉強でも研究でも,やれるものはとにかくなんでもやる,というスタンスでいる人のほうが,博論だけに集中している人よりも道が開けているように,名大時代の後輩を見ていても思います。むしろ,博士課程にいて博論の研究しかできなかったら,アカデミアで就職してから研究を続けていくことなんて到底できないのではとすら思います。どのような就職先でも,1つの研究だけをやれる環境であることなんてないわけですから。

とはいっても,あれこれ手を出した結果として博士論文がずっと書けないということになっては本末転倒であることは確かです。よって,博士論文をおろそかにしてもいいということでは決してありません。でも1年中,3年間ないしは4年間の博士後期課程の間,ずっと博士論文のことだけを考え続ける,それしか時間がない,なんてことあるのだろうかと思います。

もう一つ,博論関係のアドバイスでいうと,完璧な博士論文を目指さないということです。そもそも完璧な研究などないし,完璧な学位論文などありません。完璧を求めていたら一生終わらないし,完璧でないと博士号がもらえないわけでもありません。これは私自身が博士論文執筆中に副査の先生だった方にも言われたことです。博論はpassかfailなんだから,passしたらいいだけだと言われました。博士号を取ったあともずっと長く研究人生は続いていくわけで,そのプロセスの中で少しでも良いと思える研究ができるように頑張るということでいいと思います。

パネルディスカッション

パネルディスカッションでは登壇者3人にいくつか質問が投げられて順に答えるという感じでした。私が印象に残っているのは,「これからの博士に求められること」という質問でした。印象に残っている理由は,私以外の2人の先生は,社会にインパクトを与える研究ができるかどうかや社会実装ができるかどうか,という点を挙げられていたことです。私は人文科学の代表として,別に社会に自分の研究成果を直接的に還元しようと思わなくてもいいと思っていると言いました。念頭にあったのは,それを意識しすぎてなのか,そこまで言えないでしょう,もっと抑制的にならないと,というような発言してしまうことがこの分野だと散見されるという私の個人的な認識でした。ただ,じゃあ自分のやりたいことをやりたいようにやっていればいいかというとそういうわけではなくて,自分の研究が社会に直接役に立つわけではなかったら何に貢献しているのかを考えることがとても重要だと思います。以前参加した学内の科研費獲得セミナーでも,人文科学系では申請書の評価の際に社会実装・社会へのインパクトの重要度が他分野と比較して高くないという話を聞いたので,そういうのも頭にあったからこその発言ではあるなと今振り返って思います。

懇談会

社会科学,人文科学,自然科学の3つの領域から1人ずつ登壇したので,最後にそれぞれのグループに分かれてコーヒーを飲みながら懇談会がありました。私は一応人文系代表ということで、外国語教育学研究科,文学研究科,心理学研究科,東アジア文化研究科の院生さんたちと話をしました。話をするといっても,一人ひとりに今の不安とか悩みとかを聞いたり,質問をもらったりという感じでした。先の見えない不安だったり,自分が何をやりたいかわからなくなっていたり,というのが話題でした。

おわりに

もっと院生さんたちと話したり,終わった後に登壇者の先生方と話をしたかったのですが,アウェイ大阪ダービー参戦という大事な用事があったので,時間を少しすぎたところでお暇しました。すごく良いイベントだと個人的には思ったので,院生さんたちにも参加して良かったと思ってもらえていたら良いなと思います。

ちなみに大阪ダービーは0-1で敗戦したので,この記事を書くことで心を沈めています。今から反省会です。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

主な著作は、まだない

久しぶりにブログ記事を書く。思ったように書く。

私は,論文や書籍などの著作のbio欄(著者紹介)を書くのが苦手である。できれば書きたくないといつも思っている。なぜそう思うのかと考えていると,そこには自分はこんな本を書いたことがあるとか,こんなジャーナルに論文を載せたことがあるとか,そういうことを書くことが慣例になっているからかなと思う。

もちろん,新しく論文が出版されればX(旧Twitter)にポストするし,誰かがポストしてくれていたらリポストする。自分のウェブサイトにも新しく出版された論文等の情報は更新するし,researchgateやresearchmapなどの更新もする。

それでも,私はいつでも「自分は何者でもない」と思っている。 “no one”というやつだ。私には人様にお伝えするような輝かしい経歴や,多くの人に読まれるべきと自分で思う著作などない。私のことを知らない人からすれば,本を手に取り,どんな人が書いたものなのかと著者紹介のページを見て,そこに何が書いてあるのかは重要な情報だろうということはわかる。私も,自分が存じ上げない方であれば著者紹介を見るし,どんな書籍だろうと著者紹介の部分は読む。

そうはいっても,私はそれを自分で書くのが嫌なのだ。かと言って人に勝手に書かれたものが載るのはどうなのかというと,気持ち的にはそちらのほうが幾ばくかは楽かもしれない。それは,例えば講演で講演者として自分が紹介されるときに,「田村先生は名古屋大学大学院で博士号を取得され….」といった具合に紹介されるのと似たような感覚だからである。

ちなみに,これは人が何を書いているかという問題ではない。誰かが何かを書いているのが気に入らないとか,書く内容の慣例が気に入らないとか,そういうことではない。他の人のことはどうでもいい。これは私の個人的な問題である。

そのようなことの解決策として私が考えついたのが,このブログ記事のタイトルである,「主な著作は,まだない。」なのだ。私のような凡人には,人様にお伝えするような主な著作は「まだない」。そういうのが一つでも書けるように,死ぬまでには,自分で自信を持って,これはぜひ紹介したい,ここで言及したいと思えるような自分の書籍や論文を書けるよう,頑張っている。しかしながら,「今の時点では」,私の業績表にあるものは私が胸を張れるようなものではない。

最近書籍情報がウェブに出たとある本の原稿の著者紹介にも,私は,「主な著作は,まだない」と書いた。「ふざけてんのか」って思われるなら,「ふざけてんのか」と言われる方が良い。そうなったら,「まあはい、さーせんした」となる。ところが,そういうやりとりもなしに,私の著者紹介のうち,「主な著作は,まだない」という一文はしれっと削除されていた。再校のときまでは,特に何もなかった。三校になって,急に削除された。そして,削除しましたとも言われなかった。削除されたということは,それはだめだという判断なのだろうということは理解している。ただし,何の連絡もなく,共編著者の方がお気づきにならなければ,私も気づくことはなかったと思う。

最初は書籍情報がウェブに出たときにそこで削れられていたので,さすがにウェブサイトには載せられなかったのか,と思った。

ところが,実際の原稿でも削除されていたのだ。

これがオリジナル版。
末尾に青い印があるのは,共編著者に促されて他の方々と同じようなことを最終的に書き足したからである。

別に本文じゃないのだけれど,何の相談もなしにしれっと削除するのは、書き手からすると編集者への信頼がゼロになる。正直に言って,もう絶対に一緒に仕事したくないなと思う。こういう書籍を出版させていただいたことには本当に感謝はしています。しかしそれとこれとは話が別。書いている内容(消された内容)がどうこうという問題ではなく,人の書いたものを勝手に削除するという行為が,どれほど侮辱的な行為なのか,こういう仕事に関わっているならそのことをどうかご理解いただきたい。

余談だが,ChatGPTは次のように言っていた。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

[宣伝] 言語テスト学会(JLTA)第26回全国研究大会でワークショップをやります

はじめに

言語テスト学会の第26回(2023年度)全国研究大会(9/9-10 @ 東北大学)で下記のタイトルでワークショップをやります(私のWSは10日午前です)。

Rを用いた一般化線形混合モデル(GLMM)の分析手法を身につける:言語研究分野の事例をもとに

過去の資料について

資料を準備している中で,私自身が最初にLME関係でウェブに上げた資料がslideshareにあり,それが有料版でないとダウンロードできないことに気づきました。そこで,その資料をそのままspeakerdeckにもアップロードしました。

2014年の資料なのでもう9年前になり,かなり古いですが,全く知らない人にとってはわかりやすいのかなと思います。

その後,2016年には下記のテクニカルレポートを書きました。

田村祐(2016)「外国語教育研究における二値データの分析-ロジスティック回帰を例に-」『外国語教育メディア学会中部支部外国語教育基礎研究部会2015年度報告論集』29–82. [リンク]

Rでロジスティック回帰をやる方法についてコードとともに解説したものです。このレポートをベースにしたワークショップも2019年に行いました。

田村祐(2019) 「統計ワークショップ」JACET英語語彙・英語辞書・リーディング研究会合同研究会. 早稲田大学. (2019年3月9日)[資料]

そして,2021年にはこれまでに書いたり話したりしたものよりももう少し違う視点からの講演も行いました。

今回の内容

今回のワークショップは,2019年にやったロジスティック回帰がメインですが,もう少し「泥臭く」,実際に出版された次の論文のデータを使って,下処理のところからモデリングのところまでをやる予定です。

Terai, M., Fukuta, J., & Tamura, Y. (2023). Learnability of L2 collocations and L1 influence on L2 collocational representations of Japanese learners of English. International Review of Applied Linguistics in Language Teaching. https://doi.org/10.1515/iral-2022-0234 

この論文のデータはOSFで公開されているものですので,どなたでもアクセスできます。

Terai, M., Fukuta, J., & Tamura, Y. (2023, June 7). Learnability of L2 Collocations and L1 Influence on L2 Collocational Representations of Japanese Learners of English. https://doi.org/10.17605/OSF.IO/ZQE56

この研究の分析ではカテゴリカル変数は使っていないのですが,カテゴリカル変数も扱いたいなと思ったので,データは Terai et al. (2023)ですが,論文中に行っている分析とは異なる分析をする予定です。

当日使用する資料は下記のページにまとめています(当日ギリギリまで投影資料は微修正すると思います)。

https://github.com/tam07pb915/JLTA_2023_WS

投影資料を直接ウェブでご覧になりたい方は,下記のURLで投影資料をご覧いただけます。

https://tam07pb915.github.io/JLTA_2023_WS/

一応前半は理論編,後半は実践編となっていて,Rのコードをアウトプットに文章の解説を入れています。ごちゃごちゃして見にくいかもしれませんがご容赦ください。

今回のWSは3時間ですが,たぶんそれだけでは消化不良になると思うので,私が過去に公開している他の資料と合わせて読んでいただくと良いのではと思います。

おわりに

統計関係の話は専門家ではないのですが定期的にお声がけいただき,そのたびに勉強し(なおし)ているような気がします。

仙台までお越しになれないという方も,学会ウェブサイトにて動画が後日公開されるようですので,そちらをご覧いただければと思います。また動画が公開されましたらこのブログ記事にも追記します。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

追記(2023年9月13日)

動画が公開されたようです。前後半に分かれています。

サッカーでは手を使わない,というたとえについて

はじめに

下記のツイートについて,補足が必要だったかなと思うので,補足です。人の名前を出していますが(私のアイデアではないので引用であることを明示したつもりでしたが),それで誤解を招くと引用元の松村さんにも迷惑がかかるので説明します。

タスク中の母語使用についての話

もともとの文脈はタスク中の母語使用の話です。タスクをやらせても母語を使ってしまうことがあって,それではタスクの意味がない,じゃあどうするか,というときに,サッカーの例えを学生に伝えているという話です。

英語の授業でタスクが行われるとしたら,その目的は英語が上手になるために必要なことで,それは英語でやることに意味がある。だから,英語でやるんだよっていうことなのですが,それはサッカーでも同じことだよね,と。サッカーというスポーツの競技力を向上させる目的で行われるゲーム形式の練習において,足だとうまくボールがコントロールできない,思うようにパスやドリブルができない,だから手を使う,そういうことはしないはずだよね。それじゃあいつまで経ってもサッカーはうまくならない。だから,難しいと感じる部分もあるかもしれないけれど,今できる自分の精一杯を英語でやってみよう。

こんなふうに学生に伝えたらどうかということです。これは「大体こんな意味」ということから私が言語化したものなので,もともとの松村さんの発言に正確ではないかもしれませんが,内容的には外れてないと思います。

冒頭のツイートの文脈

で,私が冒頭のツイートをしたのは,本日行われたLET62における全体シンポジウムの中で議論になった英語でやりとりする必然性の話題の派生です。

教室の中で,日本人である学習者同士が英語でやりとりをする。このことに必然性がない。「なぜ英語でこれをやらないといけないの?」となる。よって,英語でやりとりすることが自然であるような目的・場面・状況を作らないといけない。みたいな話。

それに対して私は,英語でやりとりする必然性を過剰に心配する必要はなくて,これは英語の授業で,これを英語でやることに意味がある,それが英語力を向上させるために必要だから,でいいじゃないですかという思いで,「必然性はいらない」とツイートしました。そのあとに,冒頭のサッカーの例えを出したわけです。英語でやらないといけない理由を説明する際に,サッカーで例えるということですね。

というご意見も頂戴しましたが,「なぜ英語でやらないといけないのか」という問いが出てくるっていうのは,「目的・場面・状況」が設定されていないからじゃないはずだと思っています。もし仮に学習者がそういうことを言うのであれば,それは英語学習自体をやりたくないと思っているはずで,「目的・場面・状況」を整えれば「これは英語でやる意味がある」と考えて活動を英語でやるようになるわけではないでしょう。つまり,問題は学習意欲の問題です。だとしたら,どうやって英語学習へのモチベーションを上げるかを考えるべきだと私は思います。その仕掛けづくりですよね。登壇者の一人である奥住先生は,必然性がなくても,なにか言いたいという気持ちを活動の仕掛けによってうまく刺激できたら,英語でやる必然性なんか考えずに英語使いますよ,とおっしゃっていました。

試合やろう

また,サッカーのたとえについて,教室内で試合の状況を作るのは難しいのではないかという反応もありました。

私は,「難しいと思う人がいる」と書きましたが,「できない人がいる」とは書いていません。むしろ,難しいと思う人もいるだろうけどそれは信念の問題だと思います。その意味で,「誰でもできる」と思いますね。

「合う」・「合わない」という話はこの問題の本質とは関係ないと思います。もちろん,教育というのは何かを選択した際には必ず排除される存在の学習者が生まれます。ただし,それはどの指導方法を選択しても同じです。「試合はできない」と思う人がやる授業も,「試合はできる(しやったほうがいい)」と思う人がやる授業もそうです。割合の話にすると,少なければいいという話になりますが,もしも排除の問題にするのであればそれは割合の問題では解決できません。というか,そういう捉え方は悪手だと思います。少数であればいいだろうという考え方になるので。少数でもだめなんだけども,そのことに自覚的であるかどうかというのが問題です。

話がズレましたが,試合をやるかどうかという問題は,私にとってはサッカーの試合(11 vs. 11ではなくとも,決められた範囲のフィールドがあり,ゴールがあり,そこにボールを入れると得点となり,得点の多いほうが勝つというルールのゲーム形式の練習)をやらずにサッカーがうまくなるようにする,ということだと思っています。で,その時に,例えばですけどいわゆるオン・ザ・ボールの技術の未熟さがあったらゲーム形式の練習しないのかってことなんですよ。みんなそれぞれのレベルで,それなりに,サッカーというスポーツに取り組んで,その中で色々ことを経験して,うまくできたことに喜んだり,うまくできなかったことに悔しがったりするんじゃないでしょうか。そりゃ運動が苦手な子もいるわけですけどね。

で,その,「ゲーム形式」に合う,合わない,とかあるんでしょうか。カギカッコを使用されているのでそれが意味するところがよくわかりません。

人数の話

「タスクじゃない授業でも一緒」と書かれていますが,本当にその通りで,だから私は信念の問題と言いました。私は性善説の立場なので,基本的に学習者のことを信じています。みんなできるはずだしやるはずだと思っていつも授業をしています。講義型の授業でも,私の話に耳を傾けてくれると信じて一生懸命話しています。もちろん,現実には一定数engagementが低い学習者が教室にはいるでしょう。ただ,私はやらない学生がいる覚悟がいると思ったことは基本的にはありません。

もちろん理想は全員が高いengagementを示すことなわけですが,でも多様な学生が教室の中にはいていいはずなので,多少engagementが低い学習者はいても仕方ありません。教室の中の人数が増えればそういう学習者の発見が難しくなることは容易に想像できますけど,だからといってクラスサイズが小さくなったらengagementの低い学習者がいなくなるわけではないですしね。ただし,私は良いタスクであれば,engagementの問題をかなりの程度解決できると思っています。やり方の問題じゃなく,コンテンツの問題ですね。

おわりに

個別に返信するのめんどくさくなった大変なのでまとめてブログに書きました。

締めの合言葉を書こうとして,今日の学会で「ブログ読んでます」と声をおかけいただいたことを思い出しました。眠い。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

ChatGPTの英文校正の質

質問に答えるブログです。以下の質問です。

質問


英文(学生が授業提出用のエッセイを書いたとして、または、教員が研究論文を書いたとして)を例えばChatGPTに校正してもらった場合と、いわゆるネイティブに校正してもらった場合との「質」の差はどうなんでしょうか。

回答

英文校正業者に頼んだ場合でも校正者によって結構ばらつきはありますし,ChatGPTでも毎回同じように校正してくるわけではない(ように感じるときがある)ので,比較するのが難しいですが,個人的な印象だけでいえば,差はとくにないように思います(つまり英文校正業者に頼むほうが良いとはあまり思わない)。ジャーナルごとに異なるフォーマットの調整をうまくやってくれるのかは試したことないですが,そういうのは業者に頼むほうが安心感あるかなとなんとなく思っています。あとは,ChatGPTは校正目的で使うとなるとどうしても分量を分割する必要が出てきますよね。全体の構成(例えばバックグラウンドの書いてあることとディスカッションに書いてあることのつながりがどうかとか)に関係するような部分のフィードバックや用語の統一感に関わる部分などは限界があるかもしれません。もしかすると,プラグイン使ってPDFを読ませたらに関連することをうまく読み取ってアドバイスしてくれるのかもしれませんが。

また,論文を書くための校正と授業でエッセイを書いたものを校正するのは目的が全然異なることなので,一緒くたに語れないなとも思います。ライティングの授業でエッセイを書かせるとすれば,少なくとも私は自分自身のかなり強い「こだわり」があるので,そういう部分はChatGPTが(私が満足できる程度に)指摘してくれるわけではありません。文法的な部分というよりも,情報の並べ方とか,結束性や一貫性の部分ですね。

つまり,学生の提出したものを校正するという点では私は「構成」の部分については少なくとも私の好みを反映させるのはなかなか難しいなぁと思っています。

あとは,ご自身で使ってみるのが1番かと思いますので,ご自身の目的に合わせてどの程度使えるのか試してみてはいかがでしょうか。

質問したい方はどうぞ。

なにをゆう

たむらゆう。

https://querie.me/user/tam07pb915

おしまい。

大学院進学セミナーの開催責任者になったら?

はじめに

久しぶりの,質問に答えるブログです。以下の質問です。

学部の3,4年生を対象に大学院進学に関するセミナーを実施する際の開催責任者になったとして。セミナーにはどのような項目をスケジュールされますか?また、各項目に望み通りのスピーカーをお願いできるとしたら、誰に依頼されますか?

回答

研究科の構成員になったのが今年からなので,なかなか難しい質問ですね。うちの研究科って学部生向けに進学セミナーとかやってたかな?というのもあります。あとは,このイベントが任意参加なのかとか,対象が自分のところの学部だけなのか,あるいは広く学部や大学を問わずに学部3,4年生対象なのかとか。

という前置きをした上で,自分のところの学部生対象で,任意参加(ただし結構な人数集まってくれるという希望的観測),という想定で以下考えました。また,スピーカー依頼の個人名を挙げるのはちょっと憚られるのでしてません。うちうちに話すならまだしも,こういうところで名前をあげられた人にもあげられなかった人にもあまり良くないかなと思いますので。質問者の方的にはその人選にも興味がおありかもしれませんが,申し訳ありません。

  1. 大学院とはどういうところか
  2. うちの研究科で学べる事
  3. 奨学金制度等の紹介
  4. 現役学生の声(M, D)
  5. 現役院生のポスター発表会

みたいな感じですかね。セミナー参加学部生の人数にもよりますが,4はグループ分けして各グループに院生を1人割り振って,学部生からの質問に答えてもらうみたいな方式にしてもいいかもしれないなと思いました。参加する院生は大変かもですし,院生によって言ってることが違うとかそういうことがあって誤解が生まれてしまうとそれはそれで良くないということもありますけど。ただ,院生のリアルな声を学部生に聞いてもらうことは,すごく効果的だと思いますし,全体に対して話すような形式よりもグループでやった方がフランクになるんじゃないかなと思いますね。

1, 2, 3のそれぞれにスピーカーをお願いするとしたら,というのは難しいですねぇ。3については誰が適任というのを決めにくいですが,1と2で検討するべき要因としては,(a)男性と女性が半々になること,(b)言語教育,異文化コミュニケーション,通訳翻訳の3つの領域の多様性が確保されていること,(c)言語の多様性が確保されていること,があるかなと思っています。

3を入れている理由は,やっぱり大学院進学を決断するにあたって,経済的な要因が影響するかなと思っているからです。いろんな制度を利用することができて,負担ゼロとはいかなくても負担を減らせることがわかれば,それなら進学しようかなと思ってもらえる人もいるかもしれません。

5のポスター発表は,大学院生って結局なにしてるの?っていうところを学部生に身近に感じてもらうために,やってみたら面白そうだなというところです。これは,研究がまだまだ固まっていてもいなくてもよいと思っています。こんなことを考えているよとか,最近こんな論文を読んだよとか,そういうのでもいいなと。ただ,聴衆が学部生であるということを念頭に,院の授業やゼミで発表するのとは違う,伝える難しさを院生に経験してもらうことは,その院生にとってもメリットがあることだと思います。また,ポスター発表がきっかけで関連した内容に興味を持った学部生がゼミでそのことについて調べたりなど,学部生と院生の学術的交流が生まれる可能性も期待できます。院生からしても,自分が発表したことで興味を持って大学院に行こうと思う人が1人でもいたら,めちゃくちゃ嬉しいですよね。もちろん,それが出なかったら失敗だとかいうことでは全くないということは伝えておかないといけませんが。

個人的なポイントは,院生の皆さんにも協力を(もちろん有償で)お願いするということです。そして,院生さんたちがこういう進学セミナーに携わることを「めんどくさいこと」とか「やらされること」ではなく,自分たちが研究科(の現在と未来)に貢献しているという気持ちを持ってやってくれることが大事かなと思います。また,その取り組み事態が自分の学位論文や大学院で学んでいることとも直接的・間接的につながっているということを感じでもらえたらいいですね。

というわけで,以上が私が考えた企画です。実現可能性等々は全然考えていませんし,実際に実現しようと思ったら色々なハードルがあると思いますが,たたき台くらいにはなるのでは…と思って考えました。

質問したい方はどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

はじめての英語科教育法

はじめに

本当はブログ記事を書いている場合ではないんですが,酔っているのと,この気持ちは今書いて残しておいたほうがいいと思うので書きます。

今週木曜日に,今年度から担当することになった非常勤の英語科教育法の授業をやりました。講義科目を担当したこともなく,ましてや教科教育法の授業も初めての自分が,英語科教育法の授業を教えたということが,なんというかすごく嬉しいというか,誇らしいというか,今までいろんなことを頑張ってよかったなというか,すごく感慨深い気持ちになりました。そんな話です。

どんな授業をすることにしたか

1~4とかA~Dとか,色々名前の付け方はあるでしょうが,教科教育法は4つあって,基本的には1やAから順に受けていくことになります。私の担当しているのはDです。Dで何をやるかというのも大学のカリキュラムによって色々変わると思いますが,私が依頼を受けたのは,実践系というよりはどちらかというと理論系でということでした。

ちなみに,複数の先生が割と自由に各科目を担当する関係上,他の英語科教育法科目とのつながりを意識するということもなかなかできず,実践->理論みたいな流れくらいで,授業の内容での関係を持たせるということはできないと最初の段階で思いました。非常勤ですし,私にできるのは与えられた科目で精一杯頑張ることです。

色々逡巡した挙げ句,Task-based Language Teaching(TBLT)をテーマにしようと決めました。このテーマは,私の二足のわらじのうちのひとつと個人的には認識していて,もし教科教育法を担当する機会があるのであれば,このネタで授業をやってみたいと思っていました。実践と関わりの深い科目で,私が提供できることを最大化できるのはTBLTだと思ったからです。

そこで,テキストは

タスク・ベースの英語指導―TBLTの理解と実践

にしました。洋書を選ぶのは学部生向けの授業にしてはハードルが高く,かといって和書ってこれしかないよね?という消去法で。個人的には,自分の名前が入っている書籍を教科書に指定するのってなんかはばかられる感じがするというのはあり,その事自体は素直に学生にも言いました。

初日

非常勤というのは大学院生のときに4年間やっていたわけですが,関大に就職してからは初めてで,つまり2017年度以来ということになります。ということで,なんかめっちゃくちゃ緊張したんですよね。やっぱり非常勤って場所もそうだしいろんな仕組みもそうだし,自分の慣れない場所で授業をすることになるので,いつも以上にいろんなことが気になるわけです。

場所は関学の上ケ原キャンパスなんですが,いつだったか学会で一度だけ行った記憶がありますがそれ以来という感じでした。甲東園の駅で電車を降りたら学生の数がすごくて,そこから「こんな坂道だった?」っていう坂道を学生に紛れてゾロゾロと登っていき,キャンパスの正門に就く頃には若干汗ばむ感じでした。着いてすぐに,事務方に挨拶に行ったところ,授業開始5分前くらいなのに(その時間に着いているのもどうかと自分でも思います),控室やメールボックスを案内されて,その後に,教室の定員を上回る履修登録があったことを知らされます。椅子が足りない分は運び入れると伝えられました。

履修登録者数が47名というのは授業の前に確認はしていましたが,教室のサイズはわからなかったので人数が多いということは想定外でした。もちろん,関大の英語科教育法は10〜20数名なので,それに比べたら遥かに履修者数が多いとは思っていました。ただ,教室の定員を超えるということは事務方が予想していたより多いということで…。

教室に着くと,私に声をかけてくださった名大時代の先輩(他ゼミですが私もそのゼミに出ていました)が待っていてくださって,授業開始前ぎりぎりでバタバタとご挨拶をしました。ちょうどチャイムが鳴るくらいのタイミングで教室に入ると,満員御礼といった形で席が埋まっていました。

「ギリギリになってすみません」と言いながらMBAを開いてHDMIにつなげようとしたところで,かばんにアダプタが入っていないことに気づきます。研究室から持ち帰ってはいたのですが,いつものかばんとは別のかばんで行くことに当日決めたため,入れ忘れてしまっていたのです。やらかした〜と思いながらその場でkeynoteをPDF化してLMSにあげて,学生さんには各自のデバイスで資料を見てもらおうと思いました。そんな私の様子を廊下から心配そうに事務の方が見守っていたの,今も目に焼き付いています(笑)

椅子を運び入れるために動き回っていた事務の方に,HDMI->USB-Cの変換アダプターがないか尋ねたところ,あると思うとのことで持ってきてもらえました。「ありがとうございます!」と見せてもらうと,まさかのVGA<->HDMIのやつ。これじゃないんですよねぇとUSB-A->USB-Cのケーブルを見せて、「この細いやつに繋げるやつです」と伝えたら,また探してきてもらえるということで。事務の方にご迷惑をおかけして本当に申し訳ない気持ちでいっぱいの中,時間通りに始められなくて申し訳ないということや自分の自己紹介をしました。

授業でやったこと

その後,念願のアダプタが届いてスクリーンに資料を写しながら授業ができるようになりました。まずはシラバスの確認をして,その後はアイスブレーキングを兼ねて,学生にタスクを体験してもらおうということで,GTD Book2のUnit7にある”Lie through your teeth”をやりました。3つのstatementのうちの1つは嘘で,その嘘を見破るというやつですね。実は,GTD Book1には同様の活動が,”The truth about me”という名前で収録されています。”Lie through your teeth”は,嘘を見破る・見破られないようにするという攻防がメインになるので質問をすることとそれに答えることになります。やりとりの力が要求されるわけですね。一方で,”The truth about me”はそうした質問の機会はなく,8つのstatementのどれが嘘でどれが本当かを当てるguessing gameになっています。今回は,英語科教育法というそれなりに英語ができると考えても良いだろうという集団に対して行う授業でしたので,よりチャレンジングな方を選びました。

まずは自分のことについて3つのstatement(これはworksheetにすでに記載済)について,嘘か本当かを見破るための質問をできるだけたくさん学生に考えてもらう時間をペアで取り,その後wheel of namesを使ってルーレット形式であたった学生を指名して質問をしてもらいました。

ある程度3つのstatementにまんべんなく質問が出てきたところで学生にどれが嘘かをワークシートに書いてもらって答え合わせをしました。その後,じゃあ今度はみんなの番だよということで,各自3つのstatementを書いてもらい,その後グループを作ってクイズをし合うという流れでやりました。3つのstatementは”something what you did during the spring break”と縛りをつけました。学期の一番最初なので自己紹介の要素をもたせてもよかったのですが,自己紹介で何を言うかって結構難しくて,相手との関係性とかによって何を伝える変わるんですよね。それで,いろんな可能性を考えさせることによって内容を考える負荷がかからないように,「春休みにやったこと」という直近の過去の事実についてに限定しました(こういう限定の仕方をすると,過去形を自然に引き出すこともできるよねなんていう話もあとに入れようかなという意図もありました)。

英語が得意な学生から少し苦手かもなという学生まで様々いて,机間巡視しながら英語的なサポートをしたり,質問が止まっていたらこちらから質問を投げかけてみたりしました。最初は5分Q&Aを設定していたのですが,長すぎたなと途中で思って4分で切り上げ,次のラウンドは,3分30秒で,4分のときと同じ数の質問ができるようにしよう,というように時間を徐々に短くしていきました。

ちなみに,ここまではすべて英語でやりました。最後に,今回のタスクをやってみての感想と,自分がこれを授業でやろうとする際に気をつけたほうがいいことを書いてもらって終わりました。

自分が英語の授業でこういうタスクをするのであれば,タスク後のlanguage-focusの活動は外さないのですが,今回は時間の都合もあって省きました。

授業の最後に学生からの意見を聞いたところ,

  • 英語ができる人はたくさん質問できるけれど,苦手だと質問ができずに終わってしまうのでは
  • 嘘を見破るための質問を考えるのは難しいので,質問の仕方を事前に教えるほうがいいのでは

といった意見が出ました。こういう意見が出てくることにまず感動しましたし,こういうことを学生と一緒に考えられることもなんというか嬉しかったです。自分にとっての学びにもなりますしね。

1つ目については,私はこれは表裏一体であるという話をしました。質問ができずに終わるというのは,「うまくできなかった」という気持ちで終わってしまう可能性は確かにある。他方で,それはつまり,質問が自分からできないのであればしなくても活動が成立するし,ゴールは嘘を見破ることなので,仮に質問できなくても,他の人の質問とそれに対する答えを聞いて,「1つ目が嘘かもしれない」のようにできるのであれば,それはその学習者の熟達度にあった参加ができているとも言えるよねと。

授業後のリフレクション・ペーパーでは,「質問がうまくできないと,英語が苦手な生徒はモチベーションが下がってしまうのでは」というコメントがありました。鋭い。素晴らしい。こういう観点で私の話を聞いてくれる学生がいること,本当に感謝です。

2つ目に関しては,事前に教えてしまうとタスクとは言えなくなってしまうのだけれど,それはタスクの定義を参照するところでまた戻ってきますと伝えました。教科書の内容にはまだ入っていないので,学生にはタスクとはなにか,タスクの定義とは,というような話は一切していません。まずはタスクを体験してもらい,その後にそれがどういうもので,それはどういった理論に基づいているのか,を学んでもらおうという私の狙いです。今後,学期中に何回かは別のタスクも体験してもらった上でまた今回のように指導上気をつけるべきことだったりを考えてもらうおうと思っています。

まだ1/4くらいしかリアクション・ペーパーは提出されていませんが(その場で集めたのではなくオンラインで提出なので),それでも個人的に,応答のしがいがあるコメントがたくさん並んでいて,こういうコメントを引き出せたこともそうですし,それに対して自分がどう応答するのかを考えられることも含めて,この授業を充実したものにしていけそうな感触があります。そう思えるのも,学生さんが本当に協力的で,私の授業の意図を理解しようとしてくれているからであるということも強く感じています。

教員養成課程出身者だから思う教科教育法への思い

これはなんていうかわかる〜っていう人もいるかもしれないしいないかもしれないんですが,地方国立大学の教員養成課程出身者としては,なんていうか英語科教育法って自分の教師としてのコアになっている気がするんですよね。そして,大学教員というのをぼんやりと意識したとき,自分もそういう,英語教師になるような人に向けて授業をやりたい,みたいな気持ちって結構あったなと思うのです。ただ,望めば与えられるわけでもないですし,教科教育法を教える人の数には限りがあるので,これまでそういう授業を担当する機会にも恵まれて来ませんでした。もちろん,就職先を選ぶ時点で教員養成系を選べばよかったわけですが,最初の就職先を選ぶ余裕とかないですし,待遇の話とかを聞いていたら,国公立に勤めようと思う気はよっぽどの覚悟とその業務へのやりがいを感じていないと無理だなと思います。

ただ,なんていうか,もともと学校英語教員を目指していて,そこからアメリカの大学院で挫折したり,教員採用試験に落ちて挫折したり,一念発起で進学した名大の博士課程でもたくさん挫折をしたりして,就職しても自分の思うようにいかない日々を過ごして,そうやって学部を卒業してから干支一回りしてこの歳になって,自分がお世話になった埼玉大学の及川先生が教えていたあの英語科教育法を,自分も教える,そういう授業を任されるくらいには成長したのかなと。まだまだ全然未熟ではあるのですが,素晴らしい学生と一緒に英語科教育法の授業をやっていけるということ,そういう存在になったということは,B4的全能感に溢れていたりTwitterでイキっていた12年くらい前の自分や,教採の2次試験に落ちて電車の中で涙をこらえてずっと上を向いていた10年くらい前の自分よりは,ちょっとは成長してるのかなと思えたら,今まで自分がやってきたことも,無駄じゃなかったのかなと思えますし,自分が本当に若かったときから知ってくれている人にこれまでたくさんお世話になってきたこととかも思い出して,涙でハイボールがしょっぱいです。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。