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Yu Tamura について

第二言語習得の研究者。博士(学術)。英語教育のことや統計・データ分析に関わること、趣味のサッカーのことなどについて書いています。

2023年度LET関西支部秋季大会を終えて

はじめに

11月4日(土)に開催された2023年度外国語教育メディア学会(LET)関西支部秋季大会のシンポジウムに登壇したので,その雑感みたいなものを忘れないうちに(その日の夜はほぼ記憶を失いましたが)メモしておきたいと思います。私の資料はウェブに公開しているので,下記から御覧ください。

この資料の中のメインの話は以下の2つの書籍を読めばほとんど書いてあることなので,詳しい話はそちらをお読みください。

特に,私の話は結構端折っているので,本を読んでいただかないとつながりとかも分かりにくくなっていしまっていると今になって反省しています。

第二言語研究の思考法: 認知システムの研究には何が必要か

英語教育のエビデンス: これからの英語教育研究のために

ちなみに,下の本についてるAmazonのレビューは全く参考にならないので,レビューでこき下ろされているからといって買うのを躊躇しないでください(このブログ記事を読む人が私のこの記事の内容とAmazonのレビューで後者を参考にするとは思いたくないですけど)。

全体をざっくり

司会の浦野先生をはじめ,南先生,私と,3人とも言いたいことが結構あったなと思いましたし,それぞれに違うポイントを強調されていたのが(当然ですが)よかったなと思いました。浦野先生は,司会だから抑えめにされていたと思いますが,学会誌の投稿基準の話や追試,外的妥当性・内的妥当性の話など,外国語教育研究の大きなところの中で重要なところをピンポイントに指摘されていた印象です。南先生はとにかく実践研究を広めたい,もっと多くの人に実践研究に取り組んでもらうことで実践も研究も状況が良くなるという信念があるように感じました。

機材のトラブル等があって最後のディスカッションの時間が短くなってしまったことや,オンラインで参加された方に議論を届けられなかったことが非常に残念でした。あと何より私が残念だなと思ったのは,登壇者の南先生がマイクを持って質問者のところに行っていたことです。あれ,南先生がいい人だから自然と身体が動いてそうなりましたし,私も最初マイクを持って走り出そうとして南先生とぶつかりそうになったのですが,あの場にいた実行委員(運営委員を含めても良い)の中の誰もがその役割(シンポジウムを回す役割)を積極的に担おうとしなかったことは,端的に言って登壇者に失礼だったと思います。参加者としてあの場にいたから意識が向かなかったのかもしれませんが,さすがにシンポジウムの登壇者がやることではなかったと思います。そのこともあってか,南先生が議論になかなか加われていませんでした。私も登壇者だったのでなかなか南先生の代わりに誰かとその場で声をあげるほどの頭の余裕がその時はなくて何もできなかったのですが,後から冷静に振り返るととても心苦しかったです(途中から誰かが変わっていたかもしれませんが,記憶がそこはありません)。

フロアとのディスカッションで出た質問

私が覚えている限りの質問について,書いてまとめます。質問された方で私のまとめ方が異なるようでしたらご指摘ください。

実践研究と理論研究が相似系であること

私は探求の論理学の例で,アブダクションによる仮説形成と演繹的推論を用いた予測,そして実験から一般化するというプロセスを提示しましたが,そのプロセス自体は実践研究でも同じことなのではないかということでした(その前にも色々な話があったと思いますが)。それはそういうところもあるかなと思いましたが,アブダクションによる仮説形成時に理論的構成概念を扱うことを重視するという点は理論と実践の違いと言えるかもしれないと思いました。実践の時には構成概念の実在はそこまで重要視されないかなと思うので。

オルタナティブ・アプローチについて(※注)

SLAの話の中にいわゆる認知的「ではない」アプローチをとる研究が一切出てこなかったのですが,というコメントが有りました。私が認知的アプローチを取る研究者を代表して今回登壇したということを浦野先生が補足してくださいました。私がまず答えたのは,社会文化理論なり複雑系理論なり,Atkinson (2011)に収録されているような「オルタナティブ・アプローチ」で言われているように,認知的アプローチでは第二言語習得はわからないのだ,大事なものを捨象しているのだ,というようなものがもし仮に真であったとしても,そのアプローチを取る人たちが,認知的メカニズムを一切仮定しない第二言語習得理論を作ることはできないし,学習者の外側の要因がどれだけ重要であったとしても何からの認知的メカニズムを考えずに第二言語習得を研究することはできないというものです。あらゆる要因をすべて考慮して,全部を包括的に説明することを目指そうとというのは個人的には失敗だと思っています。let all the flowers bloomでは無理だったということを,少なくともメカニズムの探求をするのであればそれを認めた上で(まあ最初からそう思っていた人が多いと思いますが),説明する対象を限定した上でメカニズムの探求をする必要があるだろうというのが「思考法本」の中で書いてあることでもあります。

事例研究の積み重ねの重要性

医学の分野では,厳密なRCT実験ではない事例研究も全く意味がないわけではなく,それはそれで価値のあるものだと認識されているので,事例研究も…というような意見がありました。事例研究の話はこれまた寺沢さんのブログで言及されている話があるので(EBEE本の寺沢さんの5章の最後にも事例研究の話があったと思います),そちらをお読みいただくと良いと思います。

寺沢さんの話は,何を事例として取り上げるのかという選択が非常に重要で,その事例が何らかの形で理論構築なり他者なりに貢献できるような事例でなくては事例研究としての価値が低いということだと理解しています。私はそれ以外にもう一つ医療系と教育系で違う点があると思っています(これは懇親会で亘理先生とも話したことですが)。それは,介入の手順や測定の厳密性や標準化度合いです(これもEBEE本の中でPKテストが扱われる8章で述べられている話でもあります)。医療では,おそらく何らかの介入を行う際に,その手順が厳密に規定されていて,その効果を測る手段も標準化されていると思います。よって,そこのブレがない分だけ事例の共有が容易でしょう。しかしながら,言語教育において何かしらの介入指導の手順がどのくらい厳密に規定されていて,それがどれくらい標準的なものとして共有されているかというと,そこが難しいと思います。「ディクテーション」とか「英作文」とかそういうざっくりしたものは当然のこと,「間違い探しタスク」や「他己紹介」のように多くの人が内容を容易に思い浮かべることができる活動であったとしても,それをどう実施するかには多くの選択肢やバリエーションが存在しています。そして,そのバリエーションが有ることは何ら悪いことではないというか,文脈に即した活動にするためにそのバリエーションが有効に機能します。効果の測定についても,パフォーマンスで評価するにしても正確さ,流暢さ,複雑さを使って言語使用を仮に測定できたとしても,無数の指標からどれを選択するのかについて,合意形成はなされていませんし,あるタスクに固有の標準化されたルーブリックのようなものもないでしょう。これでは,仮に事例研究が多く行われていったとしてもそれを解釈するのは難しいように思います。

ただし,何をやったらどうなったのか,についての主観的な記述を蓄積していくことには意味があると思います。ある実践を行ったとき,その手順についての詳細な記述とそれを実施した教師がどういう主観的な見方をしたのか(うまくいったのか,うまくいかなかったのか),なぜそういう見方をしたのか,というようなものが蓄積されていけば,それはあとから参照する価値の高い資料になると思います。上の寺沢さんのブログでは量的な事例研究もあるので質的なものだけが事例研究だけではないと書いてあって,そこはとても大事な指摘です。量的な事例研究もありますが,教育系で理論に貢献しうる事例研究って結構難しそうだなと個人的には思っています。

おわりに

今回のシンポジウムに登壇することで,自分の考え方もより整理されたなと思います。ただ,発表自体はまだまだで,もっと伝え方を工夫しないとなかなか理解されないということも痛感しました。これは私の力不足です。意見論文をある程度の国際誌に載せるのが簡単じゃないのはよくわかっているのですが,そういうことしないと結局何も変わらないので,たくさんの人と議論を重ねながら,学界がいい方向に進んでいくといいなと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

注(2023年11月8日追記)

オルタナティブ・アプローチの話のところで,質問いただいた方からTwitterで補足・訂正をいただいたので追記します(直接メールももらいました)。

まず,私が質問を理解できていなかったことが原因で噛み合ったやりとりにならなかったこと,お詫び申し上げます。多分聞いてるときにバイアスがめちゃくちゃかかってしまっていたのだと思います。申し訳ございません。

さて,英語教育研究の中にオルタナティブ・アプローチがどう位置づけられるのかという話ですが,オルタナティブ・アプローチが今後何を目指していくのかによるのかなと思いました。認知的メカニズム以外の部分の言語習得のメカニズム的説明を目的としてやっていくのであれば,それはそれで意味があると思うので,やっていったらいいのではと思います。ただし,メカニズム的説明をやるのであれば,私が扱った批判というのはいわゆるオルタナティブ・アプローチの研究にも当てはまることだと思っています。

英語教育研究の中にどう位置づけられるのか,という話だと,「socialな側面を研究するスタディ」がどれだけ英語教育研究の「中で」やられているのかっていうと,ほとんどやられていないのではと個人的には思っています。英語教育学会に入っている人が,そういうところに興味があるのかっていうのもどうなんだろうなと個人的には思っています。だから意味がないということではなくて,だからこそ位置づけるって難しいなと言う話です。合意形成を得るのが難しそうなので。浦野先生が下記のツイート内で補足してくださっているように,”broad SLA research”と考えるとそこにはsocial SLAも入ってくるでしょうね。じゃあその”broad SLA research”と英語教育研究(外国語教育研究)がピッタリ重なるのかっていうとなんかそういう感じはしないな〜と個人的には思います。というのが私の個人的な理解ですね。

また,オルタナティブ・アプローチがメカニズム的説明を求めるのであれば,私の資料でいうと11枚目の浦野先生の作ったスペクトラムの中に英語教育研究を位置づけたものの中には入らないと思います。オルタナティブ・アプローチであったとしても,メカニズム的説明を求めるのであればそれは政策科学ではないからです。もしもオルタナティブ・アプローチがそうではなく意思決定の科学を目指すのであれば,あのスペクトラムの中の真ん中より右側に位置づけられるのかもしれません。

関西大学の院生向けキャリア関係イベントでトークしました

はじめに

関西大学キャリアセンターのイベント(主催は学内のプロジェクト)に声をかけていただき,関大の院生の方々に向けてトークをしました。

「多様な博士のキャリア」と銘打ったイベントで大学教員が呼ばれている理由はよくわかっていませんでしたが,事前の打ち合わせで,第1弾では企業に勤められている方がゲストだったということを聞いて納得しました。主に博士課程の院生さん向けのイベントで,自分の所属先の研究科の院生さんも何名か参加されていました。私の話は博士課程のうちにこういうことをやっておいたらどうですかという内容です。一緒に登壇されたおふたりの先生のお話もとても面白くて,他分野の方々の考え方やキャリアのことを聞けてとても新鮮でした。

将来を見据えて注力しておくべきこと

私のトークの話をすると,この部分が半分くらいの内容を占めています。正直,生存バイアスなので,話半分くらいで聞いてもらうのがいいかなと思って話しました。自分はこうしたほうがいいと思っているし,それが今の自分に繋がっているとは思っていますが。

得意なことの掛け算を意識

これは結構意見が分かれるかもしれません。得意なことでとがりまくれという意見もあるかもしれません。私は凡人なので,そういう生き方は無理でした。何か一本でここにいるというよりは,英語授業の実践(タスク),第二言語習得,心理言語学,統計,R,みたいな色々なことの掛け合わせで自分の強みになっているかなと思います。それぞれどれをとっても自分より知識・技術に優れた人はいるでしょうけれど,それを複数持っている人っていうと,あまりいないのかなという。アカデミアに就職するとなったら,狭い専門性しかなければ担当できる授業も限られてしまいますし,出せる公募の数も少ないでしょう。

博論にまっすぐ進むな

この話は実は先日,関学のT先生と話したことでもあります。博論に直接関係ないことは「必要ないこと」として切り捨ててしまう人がいるけど,それってどうなの,みたいな話だったと記憶しています。例として出てきたのはたしか,データ分析のために統計が必要だけど,統計を学ぶことそれ自体は直接関係ないから自分の手持ちのデータを分析するツールの使い方とその解釈だけ分かればいい,というようなことでした(たぶん)。

フルタイムの職を持ちながら博士課程をやるとなると,なりふり構わずやるしかないみたいな感じなのかもしれませんが,私としては博士課程の時って直接的に関係ないことでも全力でやるからこそその後につながるということばかりな気がしています。勉強でも研究でも,やれるものはとにかくなんでもやる,というスタンスでいる人のほうが,博論だけに集中している人よりも道が開けているように,名大時代の後輩を見ていても思います。むしろ,博士課程にいて博論の研究しかできなかったら,アカデミアで就職してから研究を続けていくことなんて到底できないのではとすら思います。どのような就職先でも,1つの研究だけをやれる環境であることなんてないわけですから。

とはいっても,あれこれ手を出した結果として博士論文がずっと書けないということになっては本末転倒であることは確かです。よって,博士論文をおろそかにしてもいいということでは決してありません。でも1年中,3年間ないしは4年間の博士後期課程の間,ずっと博士論文のことだけを考え続ける,それしか時間がない,なんてことあるのだろうかと思います。

もう一つ,博論関係のアドバイスでいうと,完璧な博士論文を目指さないということです。そもそも完璧な研究などないし,完璧な学位論文などありません。完璧を求めていたら一生終わらないし,完璧でないと博士号がもらえないわけでもありません。これは私自身が博士論文執筆中に副査の先生だった方にも言われたことです。博論はpassかfailなんだから,passしたらいいだけだと言われました。博士号を取ったあともずっと長く研究人生は続いていくわけで,そのプロセスの中で少しでも良いと思える研究ができるように頑張るということでいいと思います。

パネルディスカッション

パネルディスカッションでは登壇者3人にいくつか質問が投げられて順に答えるという感じでした。私が印象に残っているのは,「これからの博士に求められること」という質問でした。印象に残っている理由は,私以外の2人の先生は,社会にインパクトを与える研究ができるかどうかや社会実装ができるかどうか,という点を挙げられていたことです。私は人文科学の代表として,別に社会に自分の研究成果を直接的に還元しようと思わなくてもいいと思っていると言いました。念頭にあったのは,それを意識しすぎてなのか,そこまで言えないでしょう,もっと抑制的にならないと,というような発言してしまうことがこの分野だと散見されるという私の個人的な認識でした。ただ,じゃあ自分のやりたいことをやりたいようにやっていればいいかというとそういうわけではなくて,自分の研究が社会に直接役に立つわけではなかったら何に貢献しているのかを考えることがとても重要だと思います。以前参加した学内の科研費獲得セミナーでも,人文科学系では申請書の評価の際に社会実装・社会へのインパクトの重要度が他分野と比較して高くないという話を聞いたので,そういうのも頭にあったからこその発言ではあるなと今振り返って思います。

懇談会

社会科学,人文科学,自然科学の3つの領域から1人ずつ登壇したので,最後にそれぞれのグループに分かれてコーヒーを飲みながら懇談会がありました。私は一応人文系代表ということで、外国語教育学研究科,文学研究科,心理学研究科,東アジア文化研究科の院生さんたちと話をしました。話をするといっても,一人ひとりに今の不安とか悩みとかを聞いたり,質問をもらったりという感じでした。先の見えない不安だったり,自分が何をやりたいかわからなくなっていたり,というのが話題でした。

おわりに

もっと院生さんたちと話したり,終わった後に登壇者の先生方と話をしたかったのですが,アウェイ大阪ダービー参戦という大事な用事があったので,時間を少しすぎたところでお暇しました。すごく良いイベントだと個人的には思ったので,院生さんたちにも参加して良かったと思ってもらえていたら良いなと思います。

ちなみに大阪ダービーは0-1で敗戦したので,この記事を書くことで心を沈めています。今から反省会です。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

主な著作は、まだない

久しぶりにブログ記事を書く。思ったように書く。

私は,論文や書籍などの著作のbio欄(著者紹介)を書くのが苦手である。できれば書きたくないといつも思っている。なぜそう思うのかと考えていると,そこには自分はこんな本を書いたことがあるとか,こんなジャーナルに論文を載せたことがあるとか,そういうことを書くことが慣例になっているからかなと思う。

もちろん,新しく論文が出版されればX(旧Twitter)にポストするし,誰かがポストしてくれていたらリポストする。自分のウェブサイトにも新しく出版された論文等の情報は更新するし,researchgateやresearchmapなどの更新もする。

それでも,私はいつでも「自分は何者でもない」と思っている。 “no one”というやつだ。私には人様にお伝えするような輝かしい経歴や,多くの人に読まれるべきと自分で思う著作などない。私のことを知らない人からすれば,本を手に取り,どんな人が書いたものなのかと著者紹介のページを見て,そこに何が書いてあるのかは重要な情報だろうということはわかる。私も,自分が存じ上げない方であれば著者紹介を見るし,どんな書籍だろうと著者紹介の部分は読む。

そうはいっても,私はそれを自分で書くのが嫌なのだ。かと言って人に勝手に書かれたものが載るのはどうなのかというと,気持ち的にはそちらのほうが幾ばくかは楽かもしれない。それは,例えば講演で講演者として自分が紹介されるときに,「田村先生は名古屋大学大学院で博士号を取得され….」といった具合に紹介されるのと似たような感覚だからである。

ちなみに,これは人が何を書いているかという問題ではない。誰かが何かを書いているのが気に入らないとか,書く内容の慣例が気に入らないとか,そういうことではない。他の人のことはどうでもいい。これは私の個人的な問題である。

そのようなことの解決策として私が考えついたのが,このブログ記事のタイトルである,「主な著作は,まだない。」なのだ。私のような凡人には,人様にお伝えするような主な著作は「まだない」。そういうのが一つでも書けるように,死ぬまでには,自分で自信を持って,これはぜひ紹介したい,ここで言及したいと思えるような自分の書籍や論文を書けるよう,頑張っている。しかしながら,「今の時点では」,私の業績表にあるものは私が胸を張れるようなものではない。

最近書籍情報がウェブに出たとある本の原稿の著者紹介にも,私は,「主な著作は,まだない」と書いた。「ふざけてんのか」って思われるなら,「ふざけてんのか」と言われる方が良い。そうなったら,「まあはい、さーせんした」となる。ところが,そういうやりとりもなしに,私の著者紹介のうち,「主な著作は,まだない」という一文はしれっと削除されていた。再校のときまでは,特に何もなかった。三校になって,急に削除された。そして,削除しましたとも言われなかった。削除されたということは,それはだめだという判断なのだろうということは理解している。ただし,何の連絡もなく,共編著者の方がお気づきにならなければ,私も気づくことはなかったと思う。

最初は書籍情報がウェブに出たときにそこで削れられていたので,さすがにウェブサイトには載せられなかったのか,と思った。

ところが,実際の原稿でも削除されていたのだ。

これがオリジナル版。
末尾に青い印があるのは,共編著者に促されて他の方々と同じようなことを最終的に書き足したからである。

別に本文じゃないのだけれど,何の相談もなしにしれっと削除するのは、書き手からすると編集者への信頼がゼロになる。正直に言って,もう絶対に一緒に仕事したくないなと思う。こういう書籍を出版させていただいたことには本当に感謝はしています。しかしそれとこれとは話が別。書いている内容(消された内容)がどうこうという問題ではなく,人の書いたものを勝手に削除するという行為が,どれほど侮辱的な行為なのか,こういう仕事に関わっているならそのことをどうかご理解いただきたい。

余談だが,ChatGPTは次のように言っていた。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

[宣伝] 言語テスト学会(JLTA)第26回全国研究大会でワークショップをやります

はじめに

言語テスト学会の第26回(2023年度)全国研究大会(9/9-10 @ 東北大学)で下記のタイトルでワークショップをやります(私のWSは10日午前です)。

Rを用いた一般化線形混合モデル(GLMM)の分析手法を身につける:言語研究分野の事例をもとに

過去の資料について

資料を準備している中で,私自身が最初にLME関係でウェブに上げた資料がslideshareにあり,それが有料版でないとダウンロードできないことに気づきました。そこで,その資料をそのままspeakerdeckにもアップロードしました。

2014年の資料なのでもう9年前になり,かなり古いですが,全く知らない人にとってはわかりやすいのかなと思います。

その後,2016年には下記のテクニカルレポートを書きました。

田村祐(2016)「外国語教育研究における二値データの分析-ロジスティック回帰を例に-」『外国語教育メディア学会中部支部外国語教育基礎研究部会2015年度報告論集』29–82. [リンク]

Rでロジスティック回帰をやる方法についてコードとともに解説したものです。このレポートをベースにしたワークショップも2019年に行いました。

田村祐(2019) 「統計ワークショップ」JACET英語語彙・英語辞書・リーディング研究会合同研究会. 早稲田大学. (2019年3月9日)[資料]

そして,2021年にはこれまでに書いたり話したりしたものよりももう少し違う視点からの講演も行いました。

今回の内容

今回のワークショップは,2019年にやったロジスティック回帰がメインですが,もう少し「泥臭く」,実際に出版された次の論文のデータを使って,下処理のところからモデリングのところまでをやる予定です。

Terai, M., Fukuta, J., & Tamura, Y. (2023). Learnability of L2 collocations and L1 influence on L2 collocational representations of Japanese learners of English. International Review of Applied Linguistics in Language Teachinghttps://doi.org/10.1515/iral-2022-0234 

この論文のデータはOSFで公開されているものですので,どなたでもアクセスできます。

Terai, M., Fukuta, J., & Tamura, Y. (2023, June 7). Learnability of L2 Collocations and L1 Influence on L2 Collocational Representations of Japanese Learners of English. https://doi.org/10.17605/OSF.IO/ZQE56

この研究の分析ではカテゴリカル変数は使っていないのですが,カテゴリカル変数も扱いたいなと思ったので,データは Terai et al. (2023)ですが,論文中に行っている分析とは異なる分析をする予定です。

当日使用する資料は下記のページにまとめています(当日ギリギリまで投影資料は微修正すると思います)。

https://github.com/tam07pb915/JLTA_2023_WS

投影資料を直接ウェブでご覧になりたい方は,下記のURLで投影資料をご覧いただけます。

https://tam07pb915.github.io/JLTA_2023_WS/

一応前半は理論編,後半は実践編となっていて,Rのコードをアウトプットに文章の解説を入れています。ごちゃごちゃして見にくいかもしれませんがご容赦ください。

今回のWSは3時間ですが,たぶんそれだけでは消化不良になると思うので,私が過去に公開している他の資料と合わせて読んでいただくと良いのではと思います。

おわりに

統計関係の話は専門家ではないのですが定期的にお声がけいただき,そのたびに勉強し(なおし)ているような気がします。

仙台までお越しになれないという方も,学会ウェブサイトにて動画が後日公開されるようですので,そちらをご覧いただければと思います。また動画が公開されましたらこのブログ記事にも追記します。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

追記(2023年9月13日)

動画が公開されたようです。前後半に分かれています。

サッカーでは手を使わない,というたとえについて

はじめに

下記のツイートについて,補足が必要だったかなと思うので,補足です。人の名前を出していますが(私のアイデアではないので引用であることを明示したつもりでしたが),それで誤解を招くと引用元の松村さんにも迷惑がかかるので説明します。

タスク中の母語使用についての話

もともとの文脈はタスク中の母語使用の話です。タスクをやらせても母語を使ってしまうことがあって,それではタスクの意味がない,じゃあどうするか,というときに,サッカーの例えを学生に伝えているという話です。

英語の授業でタスクが行われるとしたら,その目的は英語が上手になるために必要なことで,それは英語でやることに意味がある。だから,英語でやるんだよっていうことなのですが,それはサッカーでも同じことだよね,と。サッカーというスポーツの競技力を向上させる目的で行われるゲーム形式の練習において,足だとうまくボールがコントロールできない,思うようにパスやドリブルができない,だから手を使う,そういうことはしないはずだよね。それじゃあいつまで経ってもサッカーはうまくならない。だから,難しいと感じる部分もあるかもしれないけれど,今できる自分の精一杯を英語でやってみよう。

こんなふうに学生に伝えたらどうかということです。これは「大体こんな意味」ということから私が言語化したものなので,もともとの松村さんの発言に正確ではないかもしれませんが,内容的には外れてないと思います。

冒頭のツイートの文脈

で,私が冒頭のツイートをしたのは,本日行われたLET62における全体シンポジウムの中で議論になった英語でやりとりする必然性の話題の派生です。

教室の中で,日本人である学習者同士が英語でやりとりをする。このことに必然性がない。「なぜ英語でこれをやらないといけないの?」となる。よって,英語でやりとりすることが自然であるような目的・場面・状況を作らないといけない。みたいな話。

それに対して私は,英語でやりとりする必然性を過剰に心配する必要はなくて,これは英語の授業で,これを英語でやることに意味がある,それが英語力を向上させるために必要だから,でいいじゃないですかという思いで,「必然性はいらない」とツイートしました。そのあとに,冒頭のサッカーの例えを出したわけです。英語でやらないといけない理由を説明する際に,サッカーで例えるということですね。

というご意見も頂戴しましたが,「なぜ英語でやらないといけないのか」という問いが出てくるっていうのは,「目的・場面・状況」が設定されていないからじゃないはずだと思っています。もし仮に学習者がそういうことを言うのであれば,それは英語学習自体をやりたくないと思っているはずで,「目的・場面・状況」を整えれば「これは英語でやる意味がある」と考えて活動を英語でやるようになるわけではないでしょう。つまり,問題は学習意欲の問題です。だとしたら,どうやって英語学習へのモチベーションを上げるかを考えるべきだと私は思います。その仕掛けづくりですよね。登壇者の一人である奥住先生は,必然性がなくても,なにか言いたいという気持ちを活動の仕掛けによってうまく刺激できたら,英語でやる必然性なんか考えずに英語使いますよ,とおっしゃっていました。

試合やろう

また,サッカーのたとえについて,教室内で試合の状況を作るのは難しいのではないかという反応もありました。

私は,「難しいと思う人がいる」と書きましたが,「できない人がいる」とは書いていません。むしろ,難しいと思う人もいるだろうけどそれは信念の問題だと思います。その意味で,「誰でもできる」と思いますね。

「合う」・「合わない」という話はこの問題の本質とは関係ないと思います。もちろん,教育というのは何かを選択した際には必ず排除される存在の学習者が生まれます。ただし,それはどの指導方法を選択しても同じです。「試合はできない」と思う人がやる授業も,「試合はできる(しやったほうがいい)」と思う人がやる授業もそうです。割合の話にすると,少なければいいという話になりますが,もしも排除の問題にするのであればそれは割合の問題では解決できません。というか,そういう捉え方は悪手だと思います。少数であればいいだろうという考え方になるので。少数でもだめなんだけども,そのことに自覚的であるかどうかというのが問題です。

話がズレましたが,試合をやるかどうかという問題は,私にとってはサッカーの試合(11 vs. 11ではなくとも,決められた範囲のフィールドがあり,ゴールがあり,そこにボールを入れると得点となり,得点の多いほうが勝つというルールのゲーム形式の練習)をやらずにサッカーがうまくなるようにする,ということだと思っています。で,その時に,例えばですけどいわゆるオン・ザ・ボールの技術の未熟さがあったらゲーム形式の練習しないのかってことなんですよ。みんなそれぞれのレベルで,それなりに,サッカーというスポーツに取り組んで,その中で色々ことを経験して,うまくできたことに喜んだり,うまくできなかったことに悔しがったりするんじゃないでしょうか。そりゃ運動が苦手な子もいるわけですけどね。

で,その,「ゲーム形式」に合う,合わない,とかあるんでしょうか。カギカッコを使用されているのでそれが意味するところがよくわかりません。

人数の話

「タスクじゃない授業でも一緒」と書かれていますが,本当にその通りで,だから私は信念の問題と言いました。私は性善説の立場なので,基本的に学習者のことを信じています。みんなできるはずだしやるはずだと思っていつも授業をしています。講義型の授業でも,私の話に耳を傾けてくれると信じて一生懸命話しています。もちろん,現実には一定数engagementが低い学習者が教室にはいるでしょう。ただ,私はやらない学生がいる覚悟がいると思ったことは基本的にはありません。

もちろん理想は全員が高いengagementを示すことなわけですが,でも多様な学生が教室の中にはいていいはずなので,多少engagementが低い学習者はいても仕方ありません。教室の中の人数が増えればそういう学習者の発見が難しくなることは容易に想像できますけど,だからといってクラスサイズが小さくなったらengagementの低い学習者がいなくなるわけではないですしね。ただし,私は良いタスクであれば,engagementの問題をかなりの程度解決できると思っています。やり方の問題じゃなく,コンテンツの問題ですね。

おわりに

個別に返信するのめんどくさくなった大変なのでまとめてブログに書きました。

締めの合言葉を書こうとして,今日の学会で「ブログ読んでます」と声をおかけいただいたことを思い出しました。眠い。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

ChatGPTの英文校正の質

質問に答えるブログです。以下の質問です。

質問


英文(学生が授業提出用のエッセイを書いたとして、または、教員が研究論文を書いたとして)を例えばChatGPTに校正してもらった場合と、いわゆるネイティブに校正してもらった場合との「質」の差はどうなんでしょうか。

回答

英文校正業者に頼んだ場合でも校正者によって結構ばらつきはありますし,ChatGPTでも毎回同じように校正してくるわけではない(ように感じるときがある)ので,比較するのが難しいですが,個人的な印象だけでいえば,差はとくにないように思います(つまり英文校正業者に頼むほうが良いとはあまり思わない)。ジャーナルごとに異なるフォーマットの調整をうまくやってくれるのかは試したことないですが,そういうのは業者に頼むほうが安心感あるかなとなんとなく思っています。あとは,ChatGPTは校正目的で使うとなるとどうしても分量を分割する必要が出てきますよね。全体の構成(例えばバックグラウンドの書いてあることとディスカッションに書いてあることのつながりがどうかとか)に関係するような部分のフィードバックや用語の統一感に関わる部分などは限界があるかもしれません。もしかすると,プラグイン使ってPDFを読ませたらに関連することをうまく読み取ってアドバイスしてくれるのかもしれませんが。

また,論文を書くための校正と授業でエッセイを書いたものを校正するのは目的が全然異なることなので,一緒くたに語れないなとも思います。ライティングの授業でエッセイを書かせるとすれば,少なくとも私は自分自身のかなり強い「こだわり」があるので,そういう部分はChatGPTが(私が満足できる程度に)指摘してくれるわけではありません。文法的な部分というよりも,情報の並べ方とか,結束性や一貫性の部分ですね。

つまり,学生の提出したものを校正するという点では私は「構成」の部分については少なくとも私の好みを反映させるのはなかなか難しいなぁと思っています。

あとは,ご自身で使ってみるのが1番かと思いますので,ご自身の目的に合わせてどの程度使えるのか試してみてはいかがでしょうか。

質問したい方はどうぞ。

なにをゆう

たむらゆう。

https://querie.me/user/tam07pb915

おしまい。

大学院進学セミナーの開催責任者になったら?

はじめに

久しぶりの,質問に答えるブログです。以下の質問です。

学部の3,4年生を対象に大学院進学に関するセミナーを実施する際の開催責任者になったとして。セミナーにはどのような項目をスケジュールされますか?また、各項目に望み通りのスピーカーをお願いできるとしたら、誰に依頼されますか?

回答

研究科の構成員になったのが今年からなので,なかなか難しい質問ですね。うちの研究科って学部生向けに進学セミナーとかやってたかな?というのもあります。あとは,このイベントが任意参加なのかとか,対象が自分のところの学部だけなのか,あるいは広く学部や大学を問わずに学部3,4年生対象なのかとか。

という前置きをした上で,自分のところの学部生対象で,任意参加(ただし結構な人数集まってくれるという希望的観測),という想定で以下考えました。また,スピーカー依頼の個人名を挙げるのはちょっと憚られるのでしてません。うちうちに話すならまだしも,こういうところで名前をあげられた人にもあげられなかった人にもあまり良くないかなと思いますので。質問者の方的にはその人選にも興味がおありかもしれませんが,申し訳ありません。

  1. 大学院とはどういうところか
  2. うちの研究科で学べる事
  3. 奨学金制度等の紹介
  4. 現役学生の声(M, D)
  5. 現役院生のポスター発表会

みたいな感じですかね。セミナー参加学部生の人数にもよりますが,4はグループ分けして各グループに院生を1人割り振って,学部生からの質問に答えてもらうみたいな方式にしてもいいかもしれないなと思いました。参加する院生は大変かもですし,院生によって言ってることが違うとかそういうことがあって誤解が生まれてしまうとそれはそれで良くないということもありますけど。ただ,院生のリアルな声を学部生に聞いてもらうことは,すごく効果的だと思いますし,全体に対して話すような形式よりもグループでやった方がフランクになるんじゃないかなと思いますね。

1, 2, 3のそれぞれにスピーカーをお願いするとしたら,というのは難しいですねぇ。3については誰が適任というのを決めにくいですが,1と2で検討するべき要因としては,(a)男性と女性が半々になること,(b)言語教育,異文化コミュニケーション,通訳翻訳の3つの領域の多様性が確保されていること,(c)言語の多様性が確保されていること,があるかなと思っています。

3を入れている理由は,やっぱり大学院進学を決断するにあたって,経済的な要因が影響するかなと思っているからです。いろんな制度を利用することができて,負担ゼロとはいかなくても負担を減らせることがわかれば,それなら進学しようかなと思ってもらえる人もいるかもしれません。

5のポスター発表は,大学院生って結局なにしてるの?っていうところを学部生に身近に感じてもらうために,やってみたら面白そうだなというところです。これは,研究がまだまだ固まっていてもいなくてもよいと思っています。こんなことを考えているよとか,最近こんな論文を読んだよとか,そういうのでもいいなと。ただ,聴衆が学部生であるということを念頭に,院の授業やゼミで発表するのとは違う,伝える難しさを院生に経験してもらうことは,その院生にとってもメリットがあることだと思います。また,ポスター発表がきっかけで関連した内容に興味を持った学部生がゼミでそのことについて調べたりなど,学部生と院生の学術的交流が生まれる可能性も期待できます。院生からしても,自分が発表したことで興味を持って大学院に行こうと思う人が1人でもいたら,めちゃくちゃ嬉しいですよね。もちろん,それが出なかったら失敗だとかいうことでは全くないということは伝えておかないといけませんが。

個人的なポイントは,院生の皆さんにも協力を(もちろん有償で)お願いするということです。そして,院生さんたちがこういう進学セミナーに携わることを「めんどくさいこと」とか「やらされること」ではなく,自分たちが研究科(の現在と未来)に貢献しているという気持ちを持ってやってくれることが大事かなと思います。また,その取り組み事態が自分の学位論文や大学院で学んでいることとも直接的・間接的につながっているということを感じでもらえたらいいですね。

というわけで,以上が私が考えた企画です。実現可能性等々は全然考えていませんし,実際に実現しようと思ったら色々なハードルがあると思いますが,たたき台くらいにはなるのでは…と思って考えました。

質問したい方はどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

はじめての英語科教育法

はじめに

本当はブログ記事を書いている場合ではないんですが,酔っているのと,この気持ちは今書いて残しておいたほうがいいと思うので書きます。

今週木曜日に,今年度から担当することになった非常勤の英語科教育法の授業をやりました。講義科目を担当したこともなく,ましてや教科教育法の授業も初めての自分が,英語科教育法の授業を教えたということが,なんというかすごく嬉しいというか,誇らしいというか,今までいろんなことを頑張ってよかったなというか,すごく感慨深い気持ちになりました。そんな話です。

どんな授業をすることにしたか

1~4とかA~Dとか,色々名前の付け方はあるでしょうが,教科教育法は4つあって,基本的には1やAから順に受けていくことになります。私の担当しているのはDです。Dで何をやるかというのも大学のカリキュラムによって色々変わると思いますが,私が依頼を受けたのは,実践系というよりはどちらかというと理論系でということでした。

ちなみに,複数の先生が割と自由に各科目を担当する関係上,他の英語科教育法科目とのつながりを意識するということもなかなかできず,実践->理論みたいな流れくらいで,授業の内容での関係を持たせるということはできないと最初の段階で思いました。非常勤ですし,私にできるのは与えられた科目で精一杯頑張ることです。

色々逡巡した挙げ句,Task-based Language Teaching(TBLT)をテーマにしようと決めました。このテーマは,私の二足のわらじのうちのひとつと個人的には認識していて,もし教科教育法を担当する機会があるのであれば,このネタで授業をやってみたいと思っていました。実践と関わりの深い科目で,私が提供できることを最大化できるのはTBLTだと思ったからです。

そこで,テキストは

タスク・ベースの英語指導―TBLTの理解と実践

にしました。洋書を選ぶのは学部生向けの授業にしてはハードルが高く,かといって和書ってこれしかないよね?という消去法で。個人的には,自分の名前が入っている書籍を教科書に指定するのってなんかはばかられる感じがするというのはあり,その事自体は素直に学生にも言いました。

初日

非常勤というのは大学院生のときに4年間やっていたわけですが,関大に就職してからは初めてで,つまり2017年度以来ということになります。ということで,なんかめっちゃくちゃ緊張したんですよね。やっぱり非常勤って場所もそうだしいろんな仕組みもそうだし,自分の慣れない場所で授業をすることになるので,いつも以上にいろんなことが気になるわけです。

場所は関学の上ケ原キャンパスなんですが,いつだったか学会で一度だけ行った記憶がありますがそれ以来という感じでした。甲東園の駅で電車を降りたら学生の数がすごくて,そこから「こんな坂道だった?」っていう坂道を学生に紛れてゾロゾロと登っていき,キャンパスの正門に就く頃には若干汗ばむ感じでした。着いてすぐに,事務方に挨拶に行ったところ,授業開始5分前くらいなのに(その時間に着いているのもどうかと自分でも思います),控室やメールボックスを案内されて,その後に,教室の定員を上回る履修登録があったことを知らされます。椅子が足りない分は運び入れると伝えられました。

履修登録者数が47名というのは授業の前に確認はしていましたが,教室のサイズはわからなかったので人数が多いということは想定外でした。もちろん,関大の英語科教育法は10〜20数名なので,それに比べたら遥かに履修者数が多いとは思っていました。ただ,教室の定員を超えるということは事務方が予想していたより多いということで…。

教室に着くと,私に声をかけてくださった名大時代の先輩(他ゼミですが私もそのゼミに出ていました)が待っていてくださって,授業開始前ぎりぎりでバタバタとご挨拶をしました。ちょうどチャイムが鳴るくらいのタイミングで教室に入ると,満員御礼といった形で席が埋まっていました。

「ギリギリになってすみません」と言いながらMBAを開いてHDMIにつなげようとしたところで,かばんにアダプタが入っていないことに気づきます。研究室から持ち帰ってはいたのですが,いつものかばんとは別のかばんで行くことに当日決めたため,入れ忘れてしまっていたのです。やらかした〜と思いながらその場でkeynoteをPDF化してLMSにあげて,学生さんには各自のデバイスで資料を見てもらおうと思いました。そんな私の様子を廊下から心配そうに事務の方が見守っていたの,今も目に焼き付いています(笑)

椅子を運び入れるために動き回っていた事務の方に,HDMI->USB-Cの変換アダプターがないか尋ねたところ,あると思うとのことで持ってきてもらえました。「ありがとうございます!」と見せてもらうと,まさかのVGA<->HDMIのやつ。これじゃないんですよねぇとUSB-A->USB-Cのケーブルを見せて、「この細いやつに繋げるやつです」と伝えたら,また探してきてもらえるということで。事務の方にご迷惑をおかけして本当に申し訳ない気持ちでいっぱいの中,時間通りに始められなくて申し訳ないということや自分の自己紹介をしました。

授業でやったこと

その後,念願のアダプタが届いてスクリーンに資料を写しながら授業ができるようになりました。まずはシラバスの確認をして,その後はアイスブレーキングを兼ねて,学生にタスクを体験してもらおうということで,GTD Book2のUnit7にある”Lie through your teeth”をやりました。3つのstatementのうちの1つは嘘で,その嘘を見破るというやつですね。実は,GTD Book1には同様の活動が,”The truth about me”という名前で収録されています。”Lie through your teeth”は,嘘を見破る・見破られないようにするという攻防がメインになるので質問をすることとそれに答えることになります。やりとりの力が要求されるわけですね。一方で,”The truth about me”はそうした質問の機会はなく,8つのstatementのどれが嘘でどれが本当かを当てるguessing gameになっています。今回は,英語科教育法というそれなりに英語ができると考えても良いだろうという集団に対して行う授業でしたので,よりチャレンジングな方を選びました。

まずは自分のことについて3つのstatement(これはworksheetにすでに記載済)について,嘘か本当かを見破るための質問をできるだけたくさん学生に考えてもらう時間をペアで取り,その後wheel of namesを使ってルーレット形式であたった学生を指名して質問をしてもらいました。

ある程度3つのstatementにまんべんなく質問が出てきたところで学生にどれが嘘かをワークシートに書いてもらって答え合わせをしました。その後,じゃあ今度はみんなの番だよということで,各自3つのstatementを書いてもらい,その後グループを作ってクイズをし合うという流れでやりました。3つのstatementは”something what you did during the spring break”と縛りをつけました。学期の一番最初なので自己紹介の要素をもたせてもよかったのですが,自己紹介で何を言うかって結構難しくて,相手との関係性とかによって何を伝える変わるんですよね。それで,いろんな可能性を考えさせることによって内容を考える負荷がかからないように,「春休みにやったこと」という直近の過去の事実についてに限定しました(こういう限定の仕方をすると,過去形を自然に引き出すこともできるよねなんていう話もあとに入れようかなという意図もありました)。

英語が得意な学生から少し苦手かもなという学生まで様々いて,机間巡視しながら英語的なサポートをしたり,質問が止まっていたらこちらから質問を投げかけてみたりしました。最初は5分Q&Aを設定していたのですが,長すぎたなと途中で思って4分で切り上げ,次のラウンドは,3分30秒で,4分のときと同じ数の質問ができるようにしよう,というように時間を徐々に短くしていきました。

ちなみに,ここまではすべて英語でやりました。最後に,今回のタスクをやってみての感想と,自分がこれを授業でやろうとする際に気をつけたほうがいいことを書いてもらって終わりました。

自分が英語の授業でこういうタスクをするのであれば,タスク後のlanguage-focusの活動は外さないのですが,今回は時間の都合もあって省きました。

授業の最後に学生からの意見を聞いたところ,

  • 英語ができる人はたくさん質問できるけれど,苦手だと質問ができずに終わってしまうのでは
  • 嘘を見破るための質問を考えるのは難しいので,質問の仕方を事前に教えるほうがいいのでは

といった意見が出ました。こういう意見が出てくることにまず感動しましたし,こういうことを学生と一緒に考えられることもなんというか嬉しかったです。自分にとっての学びにもなりますしね。

1つ目については,私はこれは表裏一体であるという話をしました。質問ができずに終わるというのは,「うまくできなかった」という気持ちで終わってしまう可能性は確かにある。他方で,それはつまり,質問が自分からできないのであればしなくても活動が成立するし,ゴールは嘘を見破ることなので,仮に質問できなくても,他の人の質問とそれに対する答えを聞いて,「1つ目が嘘かもしれない」のようにできるのであれば,それはその学習者の熟達度にあった参加ができているとも言えるよねと。

授業後のリフレクション・ペーパーでは,「質問がうまくできないと,英語が苦手な生徒はモチベーションが下がってしまうのでは」というコメントがありました。鋭い。素晴らしい。こういう観点で私の話を聞いてくれる学生がいること,本当に感謝です。

2つ目に関しては,事前に教えてしまうとタスクとは言えなくなってしまうのだけれど,それはタスクの定義を参照するところでまた戻ってきますと伝えました。教科書の内容にはまだ入っていないので,学生にはタスクとはなにか,タスクの定義とは,というような話は一切していません。まずはタスクを体験してもらい,その後にそれがどういうもので,それはどういった理論に基づいているのか,を学んでもらおうという私の狙いです。今後,学期中に何回かは別のタスクも体験してもらった上でまた今回のように指導上気をつけるべきことだったりを考えてもらうおうと思っています。

まだ1/4くらいしかリアクション・ペーパーは提出されていませんが(その場で集めたのではなくオンラインで提出なので),それでも個人的に,応答のしがいがあるコメントがたくさん並んでいて,こういうコメントを引き出せたこともそうですし,それに対して自分がどう応答するのかを考えられることも含めて,この授業を充実したものにしていけそうな感触があります。そう思えるのも,学生さんが本当に協力的で,私の授業の意図を理解しようとしてくれているからであるということも強く感じています。

教員養成課程出身者だから思う教科教育法への思い

これはなんていうかわかる〜っていう人もいるかもしれないしいないかもしれないんですが,地方国立大学の教員養成課程出身者としては,なんていうか英語科教育法って自分の教師としてのコアになっている気がするんですよね。そして,大学教員というのをぼんやりと意識したとき,自分もそういう,英語教師になるような人に向けて授業をやりたい,みたいな気持ちって結構あったなと思うのです。ただ,望めば与えられるわけでもないですし,教科教育法を教える人の数には限りがあるので,これまでそういう授業を担当する機会にも恵まれて来ませんでした。もちろん,就職先を選ぶ時点で教員養成系を選べばよかったわけですが,最初の就職先を選ぶ余裕とかないですし,待遇の話とかを聞いていたら,国公立に勤めようと思う気はよっぽどの覚悟とその業務へのやりがいを感じていないと無理だなと思います。

ただ,なんていうか,もともと学校英語教員を目指していて,そこからアメリカの大学院で挫折したり,教員採用試験に落ちて挫折したり,一念発起で進学した名大の博士課程でもたくさん挫折をしたりして,就職しても自分の思うようにいかない日々を過ごして,そうやって学部を卒業してから干支一回りしてこの歳になって,自分がお世話になった埼玉大学の及川先生が教えていたあの英語科教育法を,自分も教える,そういう授業を任されるくらいには成長したのかなと。まだまだ全然未熟ではあるのですが,素晴らしい学生と一緒に英語科教育法の授業をやっていけるということ,そういう存在になったということは,B4的全能感に溢れていたりTwitterでイキっていた12年くらい前の自分や,教採の2次試験に落ちて電車の中で涙をこらえてずっと上を向いていた10年くらい前の自分よりは,ちょっとは成長してるのかなと思えたら,今まで自分がやってきたことも,無駄じゃなかったのかなと思えますし,自分が本当に若かったときから知ってくれている人にこれまでたくさんお世話になってきたこととかも思い出して,涙でハイボールがしょっぱいです。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

『英語教育』2023年5月号記事の補足

はじめに

大修館書店の『英語教育』誌の特集記事の1つとして,私の記事が掲載されました。紙幅の都合で丁寧に議論できなかった部分について,このブログ記事で補足したいと思います。ちなみにですが,書いていたら本編の数倍の量になってしまったので,もはやどっちが本編かわからない感じになりました。ただ,ああいう短い原稿の背後にはこれだけ書けるくらいの話があるということは思っていただいていいかもしれません。また,ネタバレ的になりますがこのブログ記事ではフィードバックの話まで結局たどり着けませんでしたし,3つ目のQについての補足も書いていません。よって,本来であればこの記事よりもさらに長い文章を書いてようやく自分としては満足かな,という感じです。

英語教育2023年5月号

「裏付け」という言葉との向き合い方

この特集記事の執筆依頼を受けたときの最初の気持ちがこのツイートです。

この特集のタイトルが「新学期の指導に裏付けをー言語習得なぜなに相談室」というタイトルになっていることからもわかるように,この特集の意図は,ある指導の選択をする際に,それが何らかの科学的知識に基づいている方がよいだろうという前提があるように思います。そのうえで,その科学的知識を専門家が解説する記事を書く,という感じですね。

最初に私がラフ原稿的に書いたものの中では,「はじめに」の節は次のように書いていました。

この特集記事の執筆依頼を受けた時,最初に考えたことは,「大学院生の頃,『タスク・ベースの指導をめぐる疑問と解決への道』という章を分担執筆で書いたなぁ」ということであった。5年以上も前に書かれたその本は,今でもTask-based Language Teachingについての和文文献としてもっとも優れたものではないかと思っている。

本稿では,そこでは触れなかった疑問を取り上げ,私なりの回答を書こうと思う。ただ,今回は「指導に裏付けを」という特集だということを聞いたとき,実のところ私はあまり執筆に前向きな気持ちになれずにいた。なぜなら,私は指導の問題は「裏付け」のようなもので正当化することになじまないと思っているからである。

後述するように,私は学習者の誤りはすべて訂正されるべきとは思っていないが,英語教師の中には学習者が誤りを犯すのは教師の指導が足りないからであり,学習者の誤りは教師が正してやり,誤りがなくなるまで徹底的に練習に付き合うのが教師の仕事だと考えている方もいるかもしれない。そのような意見の対立に,「裏付け」のようなものは無意味である。もし仮に,徹底的に学習者の誤りを訂正し,誤りを許さない鬼教官のような教師のもとで学ぶ教室と,誤りの訂正はときおり受けるが,誤りを犯すことが悪いことだとみなしていない教師のもとで学ぶ教室を比較した大規模ランダム化比較実験があったとしよう。その結果,前者の教室で学ぶ学習者のほうが言語能力が統計的に有意に伸びることが明らかになったとする。そのような「裏付け」が仮に得られたとして,私は次の日から鬼教官になって誤りを徹底的に訂正する英語授業を展開するだろうか。答えは否である。なぜか。私はそのような指導を受け入れられないという信念があるからだ。

下記の質問と私の回答も,いくつかの文献を引用しながら述べるが,だからといって私は「裏づけがある」とは言わない。本稿をお読みいただいた上で,どのようにすべきかは読者の方々に判断していただきたい。

例が少し長いのと,ちょっと誤解を招く可能性もあるかもしれないなという指摘を受けたので,最終的には事実判断と価値判断を同一視してはいけない,という話に変えました。

言語習得研究において,指導の「裏付け」となるような科学的知識が提供されたとして,それが直接的に教室での指導の変更を迫るものであったり,あるいはすでに採用されている指導の直接的な後押しになるかというと,正直微妙ではないかと思っています。また,よくpedagogical implication(教育的示唆)なんかが研究発表や論文で求められる場合がありますし,質疑応答でそういう質問を受けることもあります。ただ,その「示唆」というのが結構厄介で,教育的示唆を出そうとすると価値判断に踏み込むことを避けられないというか,無意識のうちに価値判断をしてしまうこともあると思います。

例えば,私が記事の中で紹介したEllis et al. (2019)についても,研究の結果からわかったことは,ある特定の文法項目の指導を事前に受けることによって,その項目へ注意が必要以上に向けられた結果,その他の文法項目の正確性が下がってしまうことで,全体の文法の正確さが下がってしまうという可能性でした。また,正確さへの注意が促進されたことで,流暢さが下がってしまう可能性も示唆されました。ここで私が「可能性」と書いたのは,この結果はあくまで個別の研究の結果だけだからです。よって,そこまで強い言明はできないという留保はつけるべきです。

そして,この研究結果を引用して「事前の文法指導は避けたほうがいい」と私は書きました。これは明らかに価値判断です。Ellis et al. (2019)の結果(ケース1ですが科学的知識とします)と,「事前の文法指導は避けたほうがいい」という価値判断の間には,「特定の文法に学習者が注意を向けた結果として全体のパフォーマンスが下がるのであれば,それは好ましい指導介入ではない」という別の命題が隠れています。

「なぜなに相談室」という特集のタイトル

これは絶対に原稿には書けなかったことですが,そもそも「なぜなに相談室」という特集の名前自体が読者と著者の対立を煽っているように思いました。つまり,読者は「教えてもらう」側で,書き手は「教える」側だという構造です。4月発売の号なので,4月から新しく教壇に立たれる新任の先生方向けの企画なのだろうということは思っています。それはわかった上で,この雑誌の読者の多くは「現場」の先生方であることを考えると,そういう先生方に(仮に新任の方をターゲットにしていたとしても),大学教員の私が上から目線で何かを説くというような企画自体も,私が執筆をためらった理由の一つでもあります。teacher-researcherの対立は昔から言われていて,最近だとModern Language Journalで関連する話題の特集号も組まれていたと思います。もちろん『英語教育』誌の著者は大学教員だけではないわけですが,読み手が常に何かを教えてもらう立場であるということを暗示するような企画は個人的にはどうかなぁと思います。

そういうことを思っていても依頼が来た時点では何も言わずに原稿執筆していて,さらに原稿料ももらってる時点で私も同罪というか,こんなところで批判したところであまり意味はないのですけれど。

書き起こしについて

Q2についての回答で,書き起こしについて言及しました。このトピックの研究や,具体的な方法,実施の問題について詳述できませんでしたので,少し細くします。

発話を書き起こすという行為を学習行為として位置づけたLynch (2001)は,書き起こすという行為を導入しようと考えたきっかけとして,アウトプット活動や学習者の活動によって授業時間がいっぱいいっぱいになった結果,学習の振り返りの機会が失われてきていることへの危惧に言及しています。また,学習者が自身のパフォーマンスを改善していくという学習の営みにおいて,高熟達度の学習者だけが何を改善しているのかという自分自身のパフォーマンスの分析がよくできており,低熟達度の学習者には教師からの手助けが必要である(そうでないとうまくできない学習者が存在する)という自身の経験にも触れています。

やや余談ですが,このLynch (2001)が掲載されているのはELT Journalという雑誌でどちらかというと実践色が強いです。統制した実験研究とか,群間比較の介入研究とかよりはこういう教師の実践に基づいた論文が載っているイメージですね。ただ,かといって書き起こすという行為に何ら研究の知見が応用されていないかというとそういうわけでもありません。中心的なのは気づき仮説ですね。言語形式への気づきが第二言語学習を促進するという。ちなみに昔気づき仮説に関してこんな記事を書いたこともあります。

https://tam07pb915.wordpress.com/2014/07/29/explain-noticing/

脱線しました。このLynch (2001)が実際にどのようなことをやったのかという話をしましょう。Lynchはこの以前にやっていた実践で,”proof-listening”という活動をやっていたそうです。誰かの発表を録画しておき,それを再生しながら改善点をコメントしたりすることを繰り返していく活動のようです。しかし,現実的な問題として,コメントで指摘が入ったことに対して「言った言わない問題」が発生することがあったそうです。この問題の解決策の1つとして,学習者に書き起こしをさせよう,ということです。

私は寄稿した記事の中で,次のように書きました。

(前略)書き起こしをすることによって,活動中には気づくことのできなかった学習者の誤りを指導する機会にもなりうる。

これは,いくら教室での観察にエネルギーを注いでもすべてを聞き取れるわけではないので,書き起こしとして活動後に残るものがあれば,形式面の指導を事後的に行う際の参考になりうるという意図で書きました。ただし,学習者の書き起こしは不正確であるために注意が必要であるという指摘もあります(Stillwell et al., 2010)。

“In some instances, there were substantial portions of the recording missing from the student transcript, in which case the entire chunk was counted as only one error. The prevalence of these errors suggests that student transcriptscanprovideanindicationofperformance,buttogetaclear picture of what is really happening during task work, there is no substitute for engaging with students and monitoring classroom interaction firsthand.”

(Stillwell et al., 2010, p. 448)

学習者によってかなりのばらつきはあるようですが,書き起こしの指示とある程度の練習,そして学習者に対して,どういうものを教師が求めているのか,そしてそれをなんのためにやっているのかを説明すること,が重要かなというのは,個人の経験からも言えます。

実践的な話

書き起こしをするためには,録音・録画をするための機材が必要になります。それも,1台や2台とかではなく,モノローグであれば学習者一人ひとりに1台ずつ,ペアであればクラスの人数の半分必要になります。一昔前であれば,そんなことはLL教室でもなければ無理だったかもしれません。今は,公立学校でもタブレット端末が一人に一台あるような環境もありますよね。また,高校であれば携帯を持っている学習者もかなり多いでしょう。もちろん,個人のプライベートな端末を授業に利用することに関しては否定的な向きもあるかと思いますが。ただ,教師が数十台のICレコーダーを配る,というようなことをしなくてもいいような環境にはあるような気はしています。

タブレット端末はあるけど,有効な活用法がなかなか思いついていない,というような場合は,書き起こしというのはデバイスを活かす一つの手段ではあると思います。

もう一つ,実践上で論点となりそうなのは,おそらく時間でしょう。例えば発話が数分と短くても,実際に書き起こしをしようと思えばその数倍以上の時間がかかると思います。活動にもよりますが,数分で完結するようなものよりも10分あるいはそれ以上の会話が必要となるスピーキング課題もあると思います。そうなると,それをすべて書き起こすのは労力もかかりますし,途中で飽きてしまうこともあるでしょう。先述のLynch (2001)では,ロール・プレイタスクの中の90秒~120秒を選んで書き起こしをさせています。その後,書き起こしたものに言語的な修正を施させたあとにワードに打ち込ませて教師に渡し,教師がさらに言語的な部分の修正をした上で返却し,自分たちが打ち込んだものと教師から直されたものを比較する,というプロセスで進んでいきます。

書き起こしたものを修正させるプロセスで,Lynch (2001)が報告している4ペアの修正はpositiveな改善(incorrect -> correct)が平均で20ほどであったと報告されています(correct -> correct, correct -> incorrectの修正も合わせると平均で28)。90秒から120秒でもそうなるということですね。ちなみに,学習者が修正をしたあとにも語彙を中心に教師がさらなる修正をする必要があるという点にも言及があり,4ペア合計で,学習者6:教師4の割合で修正があったと報告されています。教師がどこまで修正をするかというのは次節の誤りの訂正にも関わる問題ですが,Lynch (2001)のようにするには日本の多くの環境ではクラスサイズの問題でできないでしょう。ただ,仮に教師が介入しなかったとしても,学習者自身でできたpositiveな改善は70%ほどであり,学習者の修正が誤っていた場合は全体の9%です。つまり,この9%を正しい修正にすることに注力するだけでも,つまりそれ以外は直さなかったとしても,学習上で大きな問題はないと言えるかもしれません。

ただし,Lynch (2001)の参加者は年齢は明らかにされていませんが,EAP(English for Academic Purpose)クラスの学生でTOEFLが520点くらいと書いてあるので,論文中では熟達度はそこまで高くないと言われていますが,個人的には,そしておそらく日本で英語を教える多くの方からすれば,むしろ熟達度は高いほうだと思われるでしょう。つまり,学習者のレベルが低い際にはこれほど多くの気づきが起こり,そして学習者たち自身で正しく修正できるかどうか,ということは留意が必要でしょう。また,ポスター・プレゼンテーション形式で発生したインタラクションを録音して書き起こしをさせたStillwell et al. (2010)では,学習者の誤った修正は1度目で32%,2度目で20%と報告がありますし,修正の回数もLynch (2001)で報告されているものより少ないです。Stillwell et al. (2010)とLynch (2001)では様々な違いがありますが,日本の大学1年生を対象にしているという点では,前者のほうが参加者は日本で英語を学ぶ学習者に英語を教える方々(『英語教育』誌のメイン読者)にとっては参照しやすいのかなと思います(ただ,かといって安易にLynchの実践は日本ではうまくいかないとか参考にならないとかそういう短絡的な話をする意図は全くありません)。

いくつかの研究

Hsu (2019)

記事内で言及したHsu (2019)は,タスクの繰り返しの効果と,タスク後の書き起こしがスピーキングの複雑さ,正確さ,流暢さ(Complexity, Accuracy, Fluency, いわゆるCAF)にどう影響するか,ということを調査した研究です。デザインとしてはスピーキングタスクを繰り返すだけのグループ(Task reperition; TR),繰り返しに加えて書き起こしもするグループ(Task repetition and post-task transcribing; TRPT),コントロール群の3つに学習者を分け(n = 13),同じタスクの繰り返しと,同じタイプの新しいタスクでCAFを比較するというものです。用いられたのは,6コママンガの描写です。全部で3つのタスクがあり,TR群とTRPT群は1回目->1回目の繰り返し+2回目->2回目の繰り返し+3回目というように合計で5回スピーキング課題に取り組み,コントロール群は3つのタスクを1度ずつしか行っていません。

書き起こしの指示は次のようになっています。

“Please download your own audio files, listen to each phrase repeatedly, transcribe the actual words (including mistakes, false starts, repetitions, and reformulations) you used as closely as possible in a MS Word document. Save it as “Original transcription”. Then, check the transcription and correct any mistakes you made regarding grammar, sentence structure, and vocabulary (please use the track change function). Save it as “Corrected transcription”. Post both the original and corrected transcription onto i-Learning. You have a week to have this assignment done.”

(Hsu, 2019, p. 187)

自分の聞いたものを間違えとかも含めてすべて書き起こし,Word上で変更記録をONにして気づいたものはなんでも修正をかける,ということが求められています。ポイントは,書き起こしがスピーチの全体に対してであること(1コマにつき最低4文でという指示で時間制限はないので,全体の分量がどれくらいかは不明)と,書き起こしに1週間という期間が与えられている点です。

分析の対象になったのは2回目の繰り返しと,3回目の新しいタスクのパフォーマンスです。同じタスクを繰り返した場合には,TR群とTRPT群ではCAFの指標のうちで有意差が見られたのは正確さの指標であるerror-free clausesのみでした(正確さについては有意になってないけど効果量が中程度とか議論されていますが,そういう効果量の解釈はダメ,ゼッタイ,なので無視します)。

一方で,新しいタスクにおいては3つの正確さの指標(Error free AS-units, Error-free clauses, Accurate verbs)のすべてにおいてTRPT-TR群の間に統計的に有意な差があり,accurate verbs以外の2つではTRPT群はコントロール群とも有意差がありました。しかしながら,TR群とControl群の間には3つの指標全てで統計的に有意な差は確認されていません。また,複雑さと流暢さでも3つのグループ間には有意差はありませんでした。正確さのみに違いが現れたことは,Skehanのトレード・オフ仮説で説明されていました。余談ですが,CAFってほんと指標の選択が恣意的で厄介なので,取り扱いには注意が必要です(cf. Fukuta et al., 2022

また,TR群とコントロール群の間に差が見られなかったことについては次のような説明があります。

“One possible explanation is, as Gass et al. (1999), Kim (2013), and Kim and Tracy-Ventura (2013) suggested, learners’ disinterest in the tasks given to them when the tasks have been carried out before. It is possible that when repeating the same task, the learners may just want to get the task done and thus did not take advantage of the content familiarity and devote effort to attend to the language formulation aspect of the task, leading to limited L2 development in the new context.”

(Hsu, 2019, p. 183)

この話って,普通の言語教師が教室でタスクの繰り返しをしようとした際には起こらないだろうことなので面白い(皮肉)ですよね。ただのモノローグ・タスクを,聞き手のいない状態で何回も繰り返したらそりゃあ繰り返すことの意味を感じないでしょうね,という話です。これが例えば,与えられた6コマ漫画の内容を知らない相手に対して伝えるという課題で,聞き手側が変わる(つまり別の聞き手に同じことを説明する)のような工夫がされているだけでも,話し手側がどのようにその課題に取り組むかは変わってくるはずです。

実際,話し手が存在し,さらにペアの相手が変わるような仕組みがある前述のStillwell et al (2010)は,タスクの繰り返しに対して学習者は肯定的にとらえていたという質問紙の回答結果を報告しています。

このHsu (2019) の研究の解釈の注意点は,タイトルにもあるようにあくまでタスクを繰り返すということとの”combined effect”であるという点です。本来ならば,2*2のデザインで次のようなデザインをするほうがベターなのでは思いますし,私ならそういう計画をすると思います。

  • TRなし・PTなし
  • TRなし・PTあり
  • TRあり・PTなし
  • TRあり・PTあり

こうすることで,TRのみの効果と,PTのみの効果を分けることができるので,同じ時間的な制約のなかで,同じタスクを繰り返すべきなのか,それとも繰り返しを書き起こしにするほうがいいのか,みたいな問いにも答えることができるようになると思います。TRなしといっても,同じタスクの繰り返しはないだけなので,厳密に言うとTR要因はprocedural repetition vs. exact repititionということになるでしょうけど。

さあ!Instructed SLAが好きな方はぜひこれで実験やってみてください。

Hassanzadeh-Taleshi et al. (2023)

さて,先のHsu (2019)の結果に対して,同じようなデザインで逆の結果を出しているのがこのHassanzadeh-Taleshi et al. (2023)です。こちらの研究の特徴は,タイトルにもあるように,タスク後「すぐに」書き起こしをさせることの効果です。前述のとおり,Hsu (2019)では1週間という期間がありました。ということで,書き起こしとタスクの繰り返し(exact repetition)をすぐにやったらどうなるか,というのがこの研究です。

参加者は38名で,19名ずつがタスクの繰り返しのみのグループ(TR)と,タスクの繰り返し直後に書き起こしをするグループ(Task repitition and immediate post-transcribing; TRIPTに分けられました。この研究での課題はトムとジェリーの動画を見てそれから内容を口頭で説明するモノローグ課題でした(制限時間はなし)。両グループともに,1週目(実際には1週目に熟達度テストがあるので2週目だが)に同じタスクをやり,次の週にもう一度同じタスクを,今後はビデオを見ることなしに行いました。TRIPTグループはその直後に書き起こしをしましたが,書き起こしを修正したり,それに対して訂正フィードバックはもらっていません。その後にもう一度同じタスクを繰り返しました。TRグループは,書き起こしをせずに1回目のあとにすぐに2回目のスピーキング課題を行いました。さらにその1週間後に両グループともにもう一度ビデオを見て同じタスクを繰り返しています。そして,直後の繰り返しと,1週間後の繰り返しの時点での発話データをCAFの指標で分析して群間比較を行っています。

結果として,CAFのどの指標でも両グループの間には統計的に有意な差は確認されませんでした。Hsu (2019)とは異なる結果が得られた理由について,著者らは次のように述べています。

“Despite the fact that compared to the TR group, the TRIPT had more time but they had to use the time available to transcribe their first oral performance in its entirety. The time and post-transcribing were only enough for the TRIPT group to detect their oral errors through comparison, but not enough to integrate the correct form into their second and third performances. This is despite the fact that the discrepancies that the participants managed to notice had already been part of their interlanguage system. In Hsu’s(2019) study, the learners were given a considerably longer time, i.e. a week. The time given to the L2 learners allowed them to transcribe their task rehearsal, correct their mistakes, to spend time reflecting on the post-task transcription. This may in part have led to stronger treatment effects on accuracy.”

(Hassanzadeh-Taleshi et al., 2023, p. 141)

書き起こしによって誤りに気づいた可能性はあるが,それが直後の,そして1週間後のパフォーマンスに影響をもたらすには十分ではなかった,ということですね。1週間の時間があれば,書き起こして,間違いを直して,そして自分のパフォーマンスを振り返るのに十分な時間があったはずで,だからこそHsu (2019)では正確さがあがったのだろうと考察しています。

また,繰り返しを求められることが参加者には明かされていなかったので,繰り返し時のパフォーマンスがより即興的であったことも原因として言及されていました。個人的には,動画を見て,そしてその内容を記憶した状態での再話と,絵を見ながらの描写はぜんぜん違う活動であり,前者(Hassanzadeh-Taleshi et al., 2023で用いられたもの)のほうが負荷が高くより記憶力が要求される課題であったことも大きな要因ではないかと思っています。実施の条件がこれだけ違えば,結果が異なっていたとしても不思議ではないというのが本音です。いわゆる「トップトップ」のジャーナルの論文じゃないから,と切り捨ててしまうのは簡単ですが,こうした介入研究を積み重ねたところで果たして「裏付け」といえるものが得られるのだろうか,というところは,ISLA研究者は問われると思います。

おわりに

誤り訂正については多くの研究の蓄積がありますが,そのあたりにも全体としての傾向についてしか言及できておらず,その中身や具体的な研究には言及できませんでした。この部分もブログで補足しようと思っていたのですが,ここまでですでに補足というよりこっちが本編ではみたいな長さの文章になってしまいましたので,またいつかの機会にしたいと思います(本当はここまででもう力尽きただけです)。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

引用文献

Fukuta, J., Nishimura, Y., & Tamura. Y. (2022). Pitfalls of production data analysis for investigating L2 cognitive mechanism: An ontological realism perspective. Journal of Second Language Studies. https://doi.org/10.1075/jsls.21013.fuk

Hassanzadeh-Taleshi, M., Yaqubi, B., & Bozorgian, H. (2023). The effects of combining task repetition with immediate post-task transcribing on L2 learners’ oral narratives. The Language Learning Journal, 51(2), 133–144. https://doi.org/10.1080/09571736.2021.1901967

Hsu, H.-C. (2019). The combined effect of task repetition and post-task transcribing on L2 speaking complexity, accuracy, and fluency. The Language Learning Journal, 47(2), 172–187. https://doi.org/10.1080/09571736.2016.1255773

Lynch, T. (2001). Seeing what they meant: Transcribing as a route to noticing. ELT Journal, 55(2), 124–132. https://doi.org/10.1093/elt/55.2.124

Lynch, T. (2007). Learning from the transcripts of an oral communication task. ELT Journal, 61(4), 311–320. https://doi.org/10.1093/elt/ccm050

Stillwell, C., Curabba, B., Alexander, K., Kidd, A., Kim, E., Stone, P., & Wyle, C. (2010). Students transcribing tasks: Noticing fluency, accuracy, and complexity. ELT Journal, 64(4), 445–455. https://doi.org/10.1093/elt/ccp081

研究だけができるか授業だけができるかを選ぶとすれば、どちらを選びますか?

はじめに

Querie.meでいただいた質問シリーズ。質問はタイトルのとおりです。「もしも」の話だというのは当然理解した上で以下の回答は書いていますが,真面目に考えすぎたかもしれません。

回答

私は自分が担当する授業の中に,語学,講義科目,ゼミ,という3つの種類があります。よって,語学の担当がない大学教員の方と私では,大学の授業に対する考え方や,あるいはどのように大学教員の仕事を捉えているか,自分の大学教員としての今後のキャリアに対する考え方も違うのかなと思います。

何が言いたいかというと,「授業だけ」といったときに,それが語学の授業だけなのか,講義科目だけなのか,ゼミだけなのか,またはいずれかの組み合わせなのか,色々なパターンが考えられますよね。よって,「授業だけ」と言ったときのイメージって人によって違いそうだなということです。また,「だけができる」というのを私は「それしかできない」と読みましたので,授業だけしかできない(研究はやりたくてもできない),研究だけができる(授業はやりたくてもできない),という環境は,大学教員という職業を前提に考えたときには前者はあっても後者は少なくとも私の分野ではないのではと思います。

さらに,前者の場合でもその場合の「授業」というのは語学の授業のみを指すことがおそらくほとんどで,講義科目やゼミだけしかできないというのはありえないのではないかと思います。もしそういうのがあるとしたら,それは授業だけしかできないのではなく,「研究はできるけれども授業だけしかやっていない」ということでしょう。そして,私はそうなっちゃいけない,なりたくないと思っています。もちろん,勉強と研究は違いますから,めちゃくちゃ勉強すれば良い講義はできると思いますが,それをする意欲や時間はあっても研究をする意欲や時間はないっていうのはあまり想像できません。さらに,ゼミとか研究の指導とかをするのであれば,研究をやっていないのに研究の指導をすることはできないのではと思います。

したがって,私は英語教員としてのアイデンティティはありますが,英語の授業だけをやっていればいい環境があったとしても,そちらは選ばないと思います。英語だけ教えるのでいいのであれば,この職業を選んでいないというか。最初の動機というか,学校教員にならなかった理由の一つとしては,自分には授業以外の部分の教育活動が向いていないと思った(つまり,授業を中心にやっていたかった)という部分が大きいです。しかしだからといって,英語を教えることだけをやりたいがために博士課程までわざわざ行きませんよね。

それはやはり,自分には研究者としてのアイデンティティも備わっているということだと思います。また,研究者というのは研究コミュニティの維持と発展というのも仕事の一部だと思っています。そのためには,研究コミュニティに参画する人を増やしたり,そのコミュニティに属する人たちの知識やスキルを上げていくことにコミットすることも必要になると思います。そして,教育というのはまさにそこに繋がる仕事だと思っています。したがって,教育はできないけど研究だけはできる,という状況は,研究者としての仕事の一部を奪われているとも言えるのではないかと私は思います。

(私の分野の)世界的に有名な研究者をどれだけ思い浮かべてみても,その人達って絶対にそこで学生を指導して,そしてその人達がまた活躍していく,そういうところに絶対いるように思います。派閥的なことになっていくとそれが良いか悪いかみたいな議論も出てくるかと思いますし,そんなことあんのかよっていう話を聞いたこともないわけではないですが,ようするに研究だけじゃなくて教育活動もやってるよね,ということです。分野の特性ももちろんあるでしょうけれども。

さらに,自分に研究者としてのアイデンティティがあると言っても,それだけで今と同じ待遇を得られるほど研究者としての才が秀でているというようにも思えません。となると,やはりそれ以外の部分での自分のスキルも生かすことのできる仕事だからこそ(裏を返せば授業をやらなければいけない仕事でもあるからこそ),今の待遇で仕事をできているのだろうなと思います。

ということで,一言でまとめると,どっちも選びたくない,選べない,ということですかね。どちらかを選ばないといけないとしたら,相当な覚悟を持っていずれかを選択することになるだろうなと思います。

なんだか回答しているようで全然回答になっていないかもしれませんが。とりあえずこんなところで。

質問したい方はどうぞ。

https://querie.me/user/tam07pb915

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。